奈良の食文化 奈良漬・吉野本葛・柿の葉寿司のおいしさとその魅力

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柿の葉寿司

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柿の葉寿司は
「ナゾの寿司」

なぜ、海のない奈良で、鯖を使った寿司が名物なのでしょう?
                

その答えは「奈良には海がないから」です。
 奈良が都だったころから、海産物を食べることは都の人々の「悲願」でした。そこで人々はいろいろな工夫をし、遠くの海からはるばると運んできて、海のない奈良でもおいしく海産物が食べられるようにしました。その海産物の一つが鯖、塩をした鯖です。
奈良が都でなくなってからその塩鯖を使ってできるだけおいしい、そして保存がきき、祭りの「ごちそう」になる寿司、柿の葉寿司が生まれました。都の貴族でも食べられなかったおいしい寿司を、奈良の人々はつくりだしました。

              

 

 

                

柿の葉寿司のなぞ


なぜお寿司? 

 スシはもともと保存食でした。「なれずし」といって魚貝類を発酵させて保存する方法でした。古いタイプのなれずしは、例えば滋賀県の鮒ずしなどがそうで、魚の漬物といっていいものです。そうしたスシは、鮓・鮨とも記され、平城京跡から出土した木簡にも多く記されています。
 いまのような握りずしタイプになるのは江戸時代以降のことです。このスシは発酵させていません。発酵した酢を飯に混ぜて、発酵したかのようにしているだけで、「早(はや)ずし」とも呼ばれます。
 柿の葉寿司は、この握りずしタイプと「なれずし」の中間タイプです。いまでも、柿の葉寿司はつくってすぐではなく、1日くらいあとが「なれて」おいしいといいます。2~3日あとくらいがおいしいという人もあります。むかし、夏祭りに村々、家々で柿の葉寿司がつくられていたころは、4~5日後が食べごろ、10日、1ヵ月はもつ、カビの生えたのだって食べられるともいわれていました。
 柿の葉寿司が、なれずしから早ずしへと変化したことがわかります。

柿の葉寿司

 

              

 

 

                

なぜ柿の葉に包むの?


 飯やすし、餅などを植物の葉に包む文化は、わが国には古くから、広くありました。柏餅や笹のちまきがその代表です。包む葉や中身は、その地方地方の自然をうつしだします。例えば、柏餅といっても、東日本ではカシワ、西日本ではサルトリイバラの葉に包みます。
 奈良でも植物の葉に食べ物を包む文化は広く見られます。でんがら(朴の葉)、ふき俵(ふきの葉)、まなめはり(下北春まなの漬物)は奈良の郷土料理です。柿の葉寿司も、奈良県の山間地では同じ具材を朴の葉に包むところもあります。
 なぜ柿の葉に包むのか?の答えは「そこに柿があったから」です。柿の葉なんかどこにでもあるだろうと考えることもできますが、なんといっても奈良は柿の名産地です。夏祭りに食べるそれなりの量の柿の葉寿司をつくるためには、それなりの量の柿の葉が必要です。祭りの時期に、柿の葉を集めるのは子どもたちの役割だったところもあります。また全国の柿の葉寿司の分布をみても、柿が名産であるところでつくられていることがわかります。
 夏祭りの時期の柿の葉はみずみずしく、寿司を包むのにほどよい硬さです。「柿の葉には防腐効果があるから」ともいわれますが、やはり答えは「夏祭りのとき、そこに柿の葉があったから」ではないでしょうか。

 

              

 

 

                

サバはどこから来たの?


 鯖は古くから、つまり縄文時代から食べられてきた、われわれにはなじみ深い魚です。青森県の三内丸山遺跡からは、マダイ・ヒラメ・マグロ・ブリ、アジ、イワシにまじって、サバの骨も出土しています。奈良の都にも日本海や伊勢湾などから鯖が運び込まれていたことが、木簡から知ることができます。
 柿の葉寿司が成立した頃、江戸時代の鯖は、おもに熊野灘(紀州)からのものであったと考えられます。紀州から2日ほどかけて、熊野川の川船や徒歩で峠を越えて奈良に塩漬された鯖が運ばれました。川上村ではこの塩鯖を「熊野もん」と呼んでいました。しかし時代や場所によっては、伊勢や若狭、紀ノ川筋から鯖は運ばれていて、奈良は東西南北から鯖がやってくる「鯖の十字路」でした。もちろん鯖だけではなく、その他の海産物が運び込まれたでしょうし、奈良は鯖だけではなく「海産物の十字路」だったかもしれません。