交わった二人の運命は やがて子と孫に受け継がれていく・・・
MENU STORY 天武天皇ストーリー ・「壬申の乱」の勝利。そして始まる国づくり。 持統天皇ストーリー ・引き継がれた夫の遺志、そして「日本」が生まれた。 STAGE ・天武・持統天皇のゆかり地をご紹介 INTERVIEW ・『ねこねこ日本史』作者、そにしけんじ氏インタビュー
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日本古代最大の戦乱である壬申の乱で大友皇子を破り、天武天皇2年(673)2月に飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇(大海人皇子)は鸕野讃良皇女(後の持統天皇)を皇后とした。天武天皇は、自身の人徳と豪族とのつながりで得た壬申の乱の勝利から多くの教訓を得た。その一つが後継者問題だった。天武天皇には、10人の皇子がいた。天武天皇8年(679)、皇后の息子である草壁皇子をはじめ、6人の皇子を伴い、吉野に行幸(天皇の外出)した。天武天皇は皇子らに、「それぞれ同じ母親ではないが、互いに助け合い争いをしないように」と、皇后を皇室全体の母として、さらに実子である草壁皇子を皇位継承者と定め、紛争を回避するための盟約を……
兄・天智天皇でさえなし得なかった律令国家への歩みを、一歩ずつ確実に進めていた天武天皇の死。 吉野の盟約で皇位継承者と認められた草壁皇子は、何度も葬儀の場に訪れた。その間、皇后である鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は姿を見せなかった。あくまでも、草壁皇子が皇位継承者として人々に周知されることを願っていた。 天武天皇のもと、「たとえ母親は違っても、互いに助け合い争いはしない」と誓い合った。皇后は皇室全体の母として、ほかの子どもたちを見る機会も増えた。だからこそ、早くに亡くなった姉・大田皇女の子である大津皇子が気になる。大津皇子は、体もたくましく、度量も広く博学、有能だった。その大津皇子があろうことか……
令和5年度 文化庁 文化芸術創造拠点形成事業