兄・天智天皇でさえなし得なかった律令国家への歩みを、一歩ずつ確実に進めていた天武天皇の死。
吉野の盟約で皇位継承者と認められていた草壁皇子(くさかべのみこ)は、何度も葬儀の場に訪れている。
その間、皇后である鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は姿を見せない。あくまでも、草壁皇子が皇位継承者として人々に周知されることを願っていた。
天武天皇のもと、「たとえ母親は違っても、互いに助け合い争いはしない」と誓い合った。皇后は皇室全体の母として、ほかの子どもたちを見る機会も増えた。だからこそ、早くに亡くなった姉・大田皇女(おおたのひめみこ)の子である大津皇子(おおつのみこ)が気になる。大津皇子は、体もたくましく、度量も広く博学、有能だった。その大津皇子があろうことか謀反を計画しているとの情報が入り、即刻処断。彼女の脳裏に、壬申の乱で先手を取った天武天皇の動きがあったかどうかはわからない。が、天武天皇のすぐそばで、皇后は多くのことを学んでいた。
草壁皇子と歳も近く、ライバルと目されていた大津皇子は消えた。将来の抗争の芽を速やかに摘んだのだ。愛息をようやく皇位継承者として天皇の座につかせることができると思った矢先、草壁皇子は病死してしまう。夫についで、息子までも……。
しかし彼女には、道なかばで潰えた夫の果たせなかった夢を現実に変える使命に燃えていた。そして、即位し持統天皇となった。
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