藤原京から平城京へ続く、大和の縦の基準線・下ツ道

文=田中眞人

(たなかまこと)民俗写真家。近著に『奈良大和路の年中行事』(淡交社)がある。現在奈良の民俗行事の写真記録に努めている。

「白地図に残された面影」
1/10,000の白地図を眺めていると、観光案内パンフレットでは記されない南北を縦貫する一本の道に気付く。途切れている道もあるが、直線道を繋げていくと平城京羅城門跡(京内を北上する路は朱雀大路)から藤原京西京極に到達する。その道は古代の幹道のひとつに数えられる下ツ道。発掘調査によると道幅は25メートル(側溝、犬走り含めた場合は34.5メートル)もあったというから、旧都を結ぶ軍事や物資輸送などに使われたのであろう。現存する道は細く、当時の面影は見られないが、今なお街道や農道の流通、生活道として活かされている。

「盆地部の環濠集落」
下ツ道の中でも特に注目したいのは、大和郡山市稗田町、伊豆七条町、八条町の旧村を貫く道がはっきりと判ることだ。白地図で集落の周辺を見ると、新興住宅地と旧村に大きな違いがあることに気付くだろう。新興住宅は直線的な区画であるのに対し、旧村は楕円や角がない四辺形など丸みをおびた区画となっている。そして、ほとんどの旧村は周囲を取り囲むように環濠で巡らされている。室町期に発達したとされるこの環濠集落は、大和郡山市をはじめ天理市、田原本町、橿原市など奈良盆地に点在している。その数は数百以上にもおよび、多くが下ツ道や中ツ道に沿った地域にある。

朱雀門

朱雀門

「下ツ道沿いの野神行事」
古代の幹道が走る奈良盆地には「野神(ノガミ)」と呼ばれる祠や塚、或いは木があり、古くから農耕の守護神として田植え前の五月から六月にかけて、豊作や農耕の無事を祈る野神行事が行われている。「ノガミ」、「ノガミサン」、「ノーガミ」、「ジャマキ」などさまざまな呼び方があり、その多くは下ツ道沿いの旧村集落で行われている。地域的に特色ある実態を記録保存するため「大和の野神行事」として国選択無形民俗文化財になっている。
下ツ道周辺の野神行事を藤原京の置かれた南から、北の平城京まで順を追って見ていく。まず、橿原市にはいくつかの野神行事があり、代表的な事例に地黄町のススツケ行事があげられる。裸姿の子供たちに墨汁を塗りつける珍しい行事だ。その晩に一泊した子供らは翌朝4時に野神塚に参る。地区へ戻る際に「ノーガミさん、おーくった、ジージも、バーバも、はよおきよ」と囃したてて帰る。また、同市には子供らが蛇綱を抱えて巡行し、榎の木に巻き付ける上品寺町のシャカシャカ祭もある。木に蛇綱を巻いて祀る小網町のノグチサン、五井町のノガミ、四条町の綱組みもある。この辺りは二上山麓の竹内街道から三輪山の南を結ぶ東西を横切る横大路である。
橿原市内の見瀬町では八幡神社の注連縄に特徴ある房を取り付ける蛇綱掛けがある。また、下ツ道から2キロメートル離れた地域の慈明寺町や東坊城町では農神祭が行われている。
北隣にあたる田原本町にも子供が登場する野神行事がある。今里と鍵の両地区で行われる蛇巻きも指定文化財になっている。シャカシャカ祭の蛇よりも数段大きい蛇綱を担いで地区を巡行する。その途中、周囲にいる人たちを突然と巻き込む。これを蛇巻きという。両地区とも最後に木に巻き付ける。西に足を伸ばせば矢部の綱掛けがある。同じように綱を巻き付ける行為がある。
北へ向かえば三宅町石見の野神祭りがある。朝日の昇るころに子供たちが蛇綱を担いで塚に向かう。シャカシャカ祭と同様に赤い舌が特徴の蛇綱である。

平城宮跡東院庭園

平城宮跡東院庭園

さらに下ツ道を北上すれば天理市に入る。今里から続く街道は一本道で、大和郡山市八条町に繋がる。その西方が川西町。大和川(初瀬川)南岸に下永の集落があり、東城と西城の両地区でキョウと呼ばれる子供が対象の野神行事が行われている。蛇の形は違っているが、共に目の玉を嵌めているのが特徴だ。
大和川を越えた大和郡山市美濃庄町、横田町、若槻町の野神行事は昭和59年の県文化財調査後に廃れたそうだが、かろうじて下三橋町だけが現存している。大和の野神行事は大和川を境に子供が登場しなくなるのが特徴だ。なお、横田町を横切る東西の幹道が北の横大路である。
こうした行事からも見てとれるように、奈良盆地の町では古くからの行事が、今なお年中行事として暮らす人々に受け継がれている。盆地を走る道も、そこで暮らす人の生活も変わったが、町に根付く文化の根本は変わらないのかもしれない。

「たたなづく青垣」
古代の人が「大和は国のまほろば たたなづく青垣」と詠まれた山々は、往事と変わらぬ景観で奈良盆地を囲んでいる。北になだらかな平城山、東は朝日が美しく昇る若草山、龍王山、三輪山。西は河内と隔てる生駒山、葛城・金剛山系。南には、冠雪した奥吉野の山々の大峰山系が遠望できる。かつて高層ビルもない田畑が広がる農村風景だった。都勤めの人たちは京城の内側、農作物を作っていたのは外側の広い地域。この辺りは昭和30年代後半までは牛で耕していた。その際に使われた農具にカラスキがあった。カラスキの形状は1000年も前から同じだったという。おそらく農耕行事も変わらなかったのであろう。青垣の山々を背景に、移りゆく季節を感じながら古来の下ツ道に思いをはせる。
平城遷都1300年を契機に、伝統的な民俗行事の文化を再認識し、ゆったりと奈良を歩くのもいいものだ。

※この紀行文は2009年11月取材時に執筆したものです。諸般の事情で現在とはルート、スポットの様子が異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。

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