歩くまえに知っておきたい宝山寺にまつわる物語
宝山寺の歴史と中興開山 湛海律師
生駒山は、役行者が655年に開いたとされる修行道場で、弘法大師もこの地で修行をしたとの伝承があり、当時は都史陀山 大聖無動寺(としださん だいしょうむどうじ)という名であったという。その後、湛海律師が再興した。
宝山寺を中興開山した湛海律師は、寛永6年(1629年)に伊勢で生まれる。1646年に江戸の永代寺に入った湛海は、歓喜天に対する修法に優れ、江戸の大火で焼失した永代寺八幡宮の復興ではその祈祷の効験を発揮した。その後、京都に歓喜院を建て独立するが、ある日訪れた円忍律師の教えを受け、真の仏法とは何かを求めることに目覚めた。その後、自身の行を完成させるにふさわしい山として、「生駒山の存在」を不動明王に暗示される。そして延宝6年(1678年)10月10日、湛海は数人の弟子とともに生駒山に入った。
生駒山は、大昔から神や仙人が住む山として、周辺で暮らす人々に崇められていた。巨岩や奇石、いつくかの窟からなる般若窟は、宝山寺の寺伝によると、役行者が梵文般若経を書写して納め、弘法大師も若いころに修行した場所だという。
その後湛海は、聖天(大聖歓喜天)を山の鎮守に仰ぎ、さらなる修行を続ける。湛海は仏像彫刻や仏画像制作の基本知識や技術にも優れ、本堂の本尊はじめ、多くの作品を今に伝えている。そして約10年で寺の伽藍は完成し、名を「宝山寺」と改めた。そして湛海はさらに苦修練行を重ね、生きながら悟りの境地に入ることを目指す。
「生駒に優れた験者あり」という噂は、当時の国の有力者たちにも届く。祈祷の依頼は相次ぎ、湛海はその期待に応えた。そして宝山寺は以後、多いに栄え「生駒さん」「生駒の聖天さん」と、現世利益を求める多くの人々の信心の寺となった。
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宝山寺
歩く際の楽しみ方
歩く際の楽しみ方
宝山寺は、生駒山の中腹にある山岳寺院。そのため、境内の所々に奈良のまちの景色を見下ろせるスポットが存在する。歩き疲れたら、美しい景色を眺めながらひと休みするのもオススメ。そしてもう一つ、寺院内では「交差した大根」と「巾着袋」の柄に、さまざまな場所で出会う。これは、歓喜天の好物であるという大根と、手に持っている砂金袋を表したもの。ゆっくりと歩きながら、これらの柄を探してみよう!