千光寺・役行者と修験の道

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  • 町の北西深く、谷川を遡り山を分け入ると現れる「千光寺」。ここは修験道の開祖、役行者が開いた寺で、行者の母親も入山修業しており、母公堂が祀られ、女性にも山内が解放された修験道の霊場となっている。元山上口駅より生駒山口神社、清滝石仏群、揺るぎ地蔵堂を経て千光寺に入り、その後金勝寺、紀氏神社、三里古墳を巡り平群駅へ至る。かつて、役行者が歩いたであろうこのコースで行者ゆかりの道を感じてください。

生駒山口神社

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創始は不詳であるが、もとは南西の滝の傍らにあり「滝の宮」と呼ばれていた。現在の場所は檪原川のすぐ横の丘陵中段にあり、谷奥の水源と山の入口を守る神だったと考えられる。延喜式神名帳には伊古麻山口神社とある。現在の祭神は素戔嗚命と櫛稲田姫命とされている。一般に山口神社は大山祇神を祀るが、長い年月の間に農耕関係の神に変わったものとみられる。毎年10月に行われる祭礼は、「オハキツキ」と呼ばれ、古式を残す行事として奈良県無形民俗文化財に指定されている。

清滝石仏群

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清滝は千光寺修験道の重要な行場であり、鳴川集落の入り口にあたる。滝側を此岸(俗界)、対岸を彼岸(仏の世界)とし、このあたりの参道沿いに多数の磨崖仏が彫られている。両岸の間に「勧請縄」が毎年大晦日に掛け替えられる。
・八尺地蔵   
清滝横の岩盤に刻まれた総高337cmの磨崖石仏で鎌倉中期の作とみられる。頭部は薄肉彫りで他の部分は線刻され、少し斜めにポーズをとった一般的な延命地蔵の姿をしている。
・五尊仏
このあたりは地蔵信仰が篤く、八尺地蔵の対岸に地蔵菩薩を中心に、左から阿弥陀如来、弥勒如来、地蔵菩薩、薬師如来、釈迦如来の五体の仏坐像が彫られている。
その他に、貝吹き地蔵、法螺吹き地蔵、はらみ地蔵などの石仏がある。石仏群全体が町指定文化財。

揺るぎ地蔵石仏群

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屋形内部左側に揺るぎ地蔵、右側に十三仏板碑、後ろ側に五輪塔が祀られている。一括で町指定文化財。
・揺るぎ地蔵
頭上に笠石を載せた高さ2mの笠地蔵石仏である。「弘安二二年(1281)」の銘があり、2度目の元寇に際し国難排除を願って建立されたとみられる。その後、当初の目的を離れて、お願いすれば病気がたちどころに揺らぐ(治る)との身近な信仰が生まれ、今日の呼び名となっている。
・十三仏板碑
「天文二十年(1551)」の銘があり、在銘の十三仏の中では、平群谷で2番目に古いものである。頭上に天蓋を表し花崗岩の舟形の板碑に初七日から三十三回忌までの仏事に配された仏を彫ったものである。
・五輪塔
鎌倉末期~南北朝頃の作とみられ、ほぼ完全な形を残している。

千光寺

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天武天皇白鳳12年(684)役行者の開基と伝えられ、現在は真言宗醍醐派の寺院。行者が修業中巌上に出現した千手観音の姿を刻んで本尊とし、観音が千の光を発したことから寺の名は千光寺となった。行者が大峰山山上ヶ嶽を開く前にここで修業したことにより「元山上」と呼ばれている。また、修業中に母親が訪れ共に修業し、女性も入山を許されたことから「女人山上」ともいわれ、女人の修行道場として栄えた。寺の後方と鳴川の渓谷沿いが現在も修業の場(行場)となっている。中世には多数の塔頭があり栄えたが、松永久秀の兵火にかかり、現在は蔵の坊を中心に復興されている。行者堂には役行者と前鬼・後鬼三尊の木像が祀られている。「元仁二年(1225)」の銘がある梵鐘(県指定文化財)や、鎌倉時代初期を下らないとみられる十三重塔などの石造物等文化財が多い。

金勝寺

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天平18年(746)行基によって創建された真言宗室生寺派の寺院。最盛期には36もの塔頭を擁したが松永久秀により焼き払われ、現在の本堂は江戸時代に再建されたもの。本尊は薬師如来坐像(像高約1.5m、町指定文化財)で、行基が制作したと伝えられている。像高約20cmの薬師三尊像があり、「南都椿井大仏師次郎作」の銘がある。金堂西に磨崖石仏群(町指定文化財)があり、鎌倉時代に元寇を迎え敵国調伏を願って線刻された「不動明王立像」(高さ1.77m)、嶋左近の妻の生前供養で彫られたとみられる「地蔵菩薩」など鎌倉時代後期~江戸時代前期にかけて14体の仏が刻まれている。境内の行基の供養塔である五輪塔などのほかに墓地にも石造物が多い。

紀氏神社

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祭神は平群氏の祖である木菟宿禰で、記紀によれば仁徳天皇から允恭天皇の時代にかけて大臣として朝廷を支えて活躍。紀州で勢力を誇った紀氏と平群氏はともに武内宿禰を祖としており、社名から紀氏の祖先も祀ったと考えられる。古来、辻の宮、椿の宮ともいわれ、平群では唯一の明神大社で町内では最も社格が高い。現在は上庄、椣原、西向の三大字の氏神で、西向きの本殿・拝殿に向かって三方にそれぞれの宮座(座小屋)が配されている。

三里古墳

三里古墳

築造は6世紀後半で全長約35~40mで、前方後円墳もしくは、直径22mの円墳と考えられている。南西に開口する両袖式横穴式石室は、石室の上半部と天井を欠き奥壁に石棚がある。玄室に棚のある石室は県下に3例しかない。玄室西よりに凝灰岩の組合せ式家形石棺、追葬として羨道(せんどう)奥に花崗岩の組合せ式箱式石棺、玄室東側と羨道前面および石棚上下にも木棺が納められており家族墓的な利用が伺える。副葬品として金銅装の馬具や武具、須恵器、土師器が多数出土している。中でも金銅装の馬具は2組あり、1組は精巧な鐘型杏葉9枚と同型の鏡板、花形の飾りと宝珠状の突起をつけた雲珠をもつ豪華な飾り馬具のセット、もう1組はハート形鏡板をもつ装飾性の高い実用的な馬具である。いずれも、6世紀後半の馬具を代表する優品に位置づけられている。県指定史跡。