記紀・万葉講座

『古事記』『日本書紀』と出雲・宗像の神話

記紀を語る講演会  天理市

2019年1月27日(日)13時00分~14時30分
会場・天理市文化センター文化ホール
講師・東京大学名誉教授 佐藤信 氏
演題・「『古事記』『日本書紀』と出雲・宗像の神話」


 

講演の内容

古事記、日本書紀には出雲系の神話が数多く採録されており、特に有名なのは「国譲り」や「八岐大蛇」であろう。各地域にもそれぞれ神話があったが、記紀の編纂の過程で天皇家を中心とした神話へと整理される中でも、出雲神話は重要な位置付けにあった。

『風土記』の中で、唯一ほぼ完全な形で現在まで残っている『出雲国風土記』も古代の時代背景を示している。713年に風土記編纂の詔が出された。詔は、都から派遣される国司に対して出されるが、『出雲国風土記』の編纂代表者は出雲国造の出雲臣広島である。その為、『出雲国風土記』は在地の物語が色濃く残っており、「国引き神話」というエピソードがある。ヤツカミズオミツノノミコトが新羅や高志(北陸)などの国から余っているところを綱で引っ張り、出雲の国にくっつけて国土を拡大したという話で、記紀には記されていない在地の神話である。ヤツカミズオミツノノミコトは、記紀神話でいうところの国津神であろう。そして、この神話から、当時の出雲は広い範囲で交流が行われていたことが窺い知れる。

記紀に登場する大国主命も、天津神系の須佐之男命の子孫であるので、ある意味では、大国主命は天津神系に取り込まれた形となっている。また、国譲り神話で、大国主命は皇祖神の天津神に葦原の中つ国を譲るかわりとして、自らを高層神殿に祀ってもらう。つまり祀ってもらうことで、大国主命は天津神として位置づけられる解釈ができるのである。この高層神殿については、『口遊』(くちずさみ)という10世紀の教養書に「雲太、和二、京三」と書かれ、これは国内にある建物のベスト3を指しており、すなわち、出雲大社が太郎、大和の東大寺が次郎、そして、三番目が京都の平安京の大極殿であると伝えている。実際に、近年、出雲大社では3本の柱を一括りにした巨大な柱の跡が発見され、出雲大社はかなりの高層神殿であったことが裏付けられた。出雲大社は、『続日本紀』によると、意宇郡にあった熊野大社と出雲大社にあった杵築大社のセットで名前が並んでおり、当時は熊野大社の方が高い地位にあったようである。出雲大社が神郡(神社の所領)として与えられた意宇郡には国府が置かれている。律令国家の統治の拠点となる場所に、在地の出雲国造が盤踞するという場所は珍しいと思う。ちなみに神郡が与えられた神社は出雲大社の他には伊勢神宮に2か所、安房神社、宗像大社、鹿島神宮、香取神宮、日前國懸神宮であり、これらは律令国家が重要視していた。

全国百数十を数えた国造の中で、出雲国造のみが、都の太政官で任命の儀式が律令国家のもとで行われた。また、上京して天皇に「神賀詞」(かむよごと)を奏上する儀礼を担っている。この特別な待遇こそが、ヤマト王権における出雲の位置付けを現していると思う。8世紀の初めに、ヤマト王権の祭祀を司る氏族であった忌部氏の忌部宿祢子首が出雲国司に就任している。彼は『帝紀』・『旧辞』の記定事業の筆録を命じられた人物であった。ヤマト王権の祭祀と関係が深い忌部氏が出雲国司として、在地の出雲国造とも結びつき、記紀の元となる神話の編纂にも携わったことは、記紀に出雲神話が多く採録されている理由のひとつとなったとも考えられる。ただ、『播磨国風土記』によると、出雲国造は、因幡や但馬国造と並列で扱われている記事もあり、元々は全国の国造と同等の関係であったようである。

福岡県の玄界灘に面した宗像市には絶海の孤島、沖ノ島の沖津宮、九州本土に近い大島の中津宮、本土の辺津宮の三宮からなる宗像大社がある。「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群として世界文化遺産に登録されており、登録された決め手としては「海を超えた交流」と「自然祭祀」などが挙げられる。この一帯を統治していた有力な豪族である宗像氏は、倭国と朝鮮半島を結ぶ、海上交通の一部を支配していた。宗像氏が信仰する宗像三女神は、航海の安全を司る神様として、4世紀末から遣唐使が廃止される9世紀終わりまで、宗像氏の祭祀と重層的に国家的な祭祀が行われた。遣隋使、遣唐使が持ち帰った各時代の最も貴重な品々が沖ノ島に奉納され、8万点にのぼる出土遺物は全て国宝となって、現在は宝物館に所蔵されている。この4世紀末という時期は、高句麗の好太王碑が記すように、この時期、朝鮮半島に倭国の兵が出兵していた。その際、海を超えるには、宗像氏の協力が必要不可欠であったため、この頃からヤマト王権は沖ノ島で国家的な祭祀を行ったのであろう。日本書紀には「汝三神、宜しく道中に降り居して、天孫を助け奉りて天孫に祭(いつ)かれよ」という天照大御神の命が記されている。この記述は、葦原の中つ国を譲るかわりに高層神殿に祀られた大国主命の国譲り神話と、構造がよく似ている。また、大国主命は宗像三女神の一柱である多紀理毘売命を妻としていることから、この二つの地域同士にも交流があったことがわかる。この宗像三女神が記紀に取り上げられる理由は、上記の他に、長屋王の存在があったと私は考えている。天武天皇と宗像君徳善の娘との間に生まれた高市皇子。彼は壬申の乱の際、事実上天武天皇側の司令官の立場であった。その高市皇子が手にした権威や勢力を譲りうけたのは、その息子の長屋王であり、ちょうどその頃に日本書紀は完成した。従って、長屋王を介して宗像氏は律令国家と密接な関係を維持していたことから、宗像の神話が重く扱われ、宗像郡が神郡となったのである。

出雲は、「国引き神話」やその他の出雲神話にみられるように、東アジア、ヤマト王権、律令国家、隠岐、九州などの諸地域と盛んに交流を行い、日本海を通じた交通や中国地方の東西、南北交通における交流の要衝であった。そして宗像も、大陸・半島との交流を担う地であり勢力である。古事記、日本書紀の時代は畿内を中心に考えがちであるが、日本列島の各地域でも、こうした多面的な地域間交流が展開しており、その痕跡は記紀にも記されているといえよう。

記紀を語る1


プロフィール

【講師プロフィール】
東京大学名誉教授:佐藤信
東京大学名誉教授。博士(文学)。木簡の史料としての性格を位置づけ、新たな研究の道を開いた。 奈良国立文化財研究所研究員、文化庁文化財調査官、聖心女子大学文学部助教授を経て東京大学助教授を経て、東京大学大学院教授。今年東京大学を定年退職し、人間文化研究機構理事。著書に『日本古代の宮都と木簡』(吉川弘文館)、『古代の遺跡と文字資料』(名著刊行会)、『出土史料の古代史』(東京大学出版会)、『古代の地方官衙と社会』(山川出版社)、『大学の日本史①古代』(山川出版社)などがある。