吉野山と熊野を結ぶ修験の道、南奥駈道

文=吉田智彦

(よしだともひこ) 紀行ライター。旅を軸にした巡礼やアウトドア、民俗を描くフォトライター。スペインのサンティアゴ巡礼路、熊野古道などを踏破。著書に『熊野古道巡礼』(東方出版)などがある。

紀伊半島の背骨と称される大峯山脈。その北端にある吉野山と南端にある熊野の二大聖地を結ぶ180キロの尾根道が、大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)だ。近畿最高峰の八経ガ岳(1914メートル)を中心に広がる山脈の最深部は原始林に覆われ、果てまで続く山塊を見渡しながら歩く。全行程をたどると通常7日はかかる、本格的な山岳ルートだ。
また、奥駈道は、6本ある熊野参詣道の中で最も古い信仰の道ともいわれている。道を拓いたとされるのは、修験者の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)だ。伝説によると役行者は、7世紀ごろ、故郷である葛城山で修行を積み、呪術使いとして世間に広く知られていた。鬼人を操り、葛城山と吉野の金峯山(きんぷせん)の間に石橋を架けさせようとした逸話があり、これは、修験道の勢力が葛城山から吉野へ広がっていった様子を語ったものと考えることができる。役行者が、地上で苦しむ世の人々を救うことのできる力強い神仏を得ようと、一千日の修行の末、修験道の本尊である蔵王大権現を祈り出したのも奥駈道が通う山上ヶ岳だった。行者たちにとって、開祖の開いた霊場が点在する奥駈道は最高の修行場であり、千三百年の歴史を持つ修験道の根本道場なのだ。

玉置山山頂の沖見地蔵

玉置山山頂の沖見地蔵

行場は、時代を追うごとに整備され、やがて「大峯七十五靡(なびき)」に集約されていった。熊野本宮大社の証誠(しょうじょう)殿を第一靡とし、吉野山の北にある柳の宿の第七十五靡まで、山中に75か所の行場・拝所があり、山伏姿の行者たちが経をあげ、碑伝(行者札)を納めていく。靡の順を追って熊野から吉野へ向かうことを順峯、吉野から熊野へ向かうことを逆峯と呼び、今でも季節さえ合えば、法螺貝を鳴らしながら列をなして進んでいく姿を見ることができる。
このコースの出発点、玉置神社がある玉置山は、第十靡。熊野三山の奥院ともいわれ、古くから奥駈修行における大切な霊場だった。
玉置神社には、図太い杉が天を支える柱のように立ち並んでいる。樹高があるものは50メートルに達し、目通りが10メートルを超える幹や樹齢3000年という神木まである。3000年前と言えば、縄文時代から弥生時代に変わろうとしていたころだ。役行者が奥駈を走り廻っていた時代の遥か昔から玉置山を見守り続けている空間には、人間の杓子を超えた、大きな揺り籠に抱かれたような、たおやかな時間が流れている。

かつえ坂

また、境内の一角には、「玉置」の語源になったとされる摂社の玉石社がある。供えられた白玉石の中から御神体の巨大な黒い玉石が頭だけをわずかにのぞかせ、今にも動き出しそうな大地の力がみなぎっている。
行者たちは、時に優しく、時に力強い、人の力をものともしない森羅万象の中で、その息吹をつぶさに感じながら一体となることで、超自然的な神仏の力、験力を身につけていったに違いない。
玉置山から本宮へ向かう行程は、吉野からの長い道のりを越えて熊野へ入るクライマックスだ。玉置山を出た古道は、アップダウンを繰り返しながら徐々に標高を下げていく。雑木が多かった山が杉や檜の植林に変わって人里の気配を増し、本宮が近づいていることを肌で感じさせてくれる。奥駈道を2度歩いたが、大峯山脈が熊野川の流れに事切れる尾根から本宮大社の旧社地、大斎原(おおゆのはら)を目にした時の感覚は忘れられない。不動の山を何日も踏みしめて、ひたすら水を惜しみながら高みを渡ってきた体には、川の太い流れが意思を持った巨大な生き物に見えた。水は、元来、日本人にとって穢(けが)れを洗い流してくれるものだ。清らかな熊野川の流れを渡って入る大斎原の森は、全てを受け入れてくれるように何もなく、静かだった。人は思いを込めれば込めるほど、どんどん偏り、本当に大切なものを見失いがちだ。しかし、大斎原にぽっかり空いた、ある意味空虚とも言える空間に身を置いたとき、自分にしかない大切なものに気づくに違いない。そんな独特の厳かな空気が漂っている。 
奥駈道には、厳しい自然の中に身をおいてこそ得るものがあるという修験道の教えを今に伝える貴重な道だ。玉置から本宮までの区間は距離こそ短いが、その魅力の一端に触れることができるコースだ。

※この紀行文は2009年11月取材時に執筆したものです。諸般の事情で現在とはルート、スポットの様子が異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。

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