トンボの歌に由来する蜻蛉の滝から、吉野・宮滝へ

文=横井 三保

(よこいみほ)織田作之助賞を主宰する大阪文学振興会事務局長。関西文学散歩の会代表。関西の文学やその舞台となった場所などに造詣が深く、(大阪文学振興会や朝日カルチャーで実施している講座は400回を超え)多くの文学ファンを魅了している。

……手腓(たくふら)に 虻(あむ)かきつき その虻を 蜻蛉(あきづ) はや囓(く)ひ 昆(は)ふ虫も 大君(おおきみ)にまつらふ 汝(な)が形(かた)は 置かむ 蜻蛉嶋倭(あきづしまやまと)。
『日本書紀』雄略天皇4年に、この地を「蜻蛉野(あきづのをの)」と名づけた物語がある。蜻蛉はトンボのことで、天皇は虻をやっつけたトンボを褒め、自ら歌を謡った。その「あきづのをの」が吉野宮の辺りだといわれている。

大和上市から「湯盛温泉」行きのバスでおよそ30分あまり、吉野宮滝から川上村へ向かう道は、吉野川の渓谷が急に狭くなる。そこからさらに約10分、五社トンネルを抜けると川上村西河(にしかわ)で、「あきつの小野の里」の大きな看板が見えた。
その里は宮滝付近だという説もあるが、雄略天皇が謡った歌にちなんで「蜻蛉滝(せいれいのたき)」と名付けられた滝へと足を進めよう。

高さ858メートルとはいえ、目指す青根ヶ峰への山道にはいささかの準備は必要と思われ、「山幸彦てくてく館」で非常食や飲み物を調達。登坂道の掛かりに「あきつの小野公園」があった。滝で修行した修験者達が開いたと伝えられる仙龍寺跡である。青根ヶ峰から流れてくる音無川に架かる反り橋を渡った先の広い平地は、桜の頃はさぞ美しいと思われるが、滝へ向かう鳥居の脇に、仙龍寺の苔むした石塔や梵字岩だけが残っている。
滝は、飛沫が美しい虹をつくるので「虹光(にじっこう)」とも呼ばれたそうだが、蜻蛉にちなむ故事は世々に伝えられ、『万葉集』の笠金村(かさのかなむら)の歌に詠まれたり、松尾芭蕉や本居宣長も滝見にきたりしたようだ。落差50mとされる蜻蛉の滝は数段に分かれ、激しく飛沫を上げながら滝壺に落ちる。
下から見上げ、真横から眺め、滝見台から覗き込むなど、色々な角度から楽しめるように、まわりに遊歩道が設けられている。いちばん下の濃い青緑に澄み切った滝壺のそばに、蕉門十哲の第一の門弟とされる宝井其角の句碑があった。「三尺の身をにしかう(西河)のしぐれかな」。その其角が滝見にやって来たのは、元禄7年(1694)9月のことだったという。

蜻蛉の滝

蜻蛉の滝

美しく雄雄しく流れ落ちる滝に見とれすぎたが、この遊歩道が青根ヶ峰への登坂の道である。白い手すりに沿って喘ぎ喘ぎ登るが、大岩が横から迫って道が狭くなっていたり、途中、木の桟道が古くなっていて少し危険な箇所もある。
修験の行場だったことを思い起こして進むが、安全策を取るには、仙龍寺跡の公園から元の車道へ戻り、大滝方面に進んで右へそれ、吉野山への標識に頼って山道を辿ると滝巡りからの道と合流できる。
間引きされ、手入れの行き届いた杉や檜の植林帯の中を進み、山肌を舐めるように続く道から尾根近くの車道に出る。蜻蛉滝からここまで約2時間の行程で、青根ヶ峰までもう少しである。『万葉集』の「み吉野の青根が峯の蘿(こけ)むしろ 誰か織りけむ経緯(たてぬき)無しに」と宮滝からの眺望を詠んだ歌を思い出しながら、頂上の三角点から山道を下った。
途中に「女人結界石」。上り道は大峯奥駈道へ続くが、上千本・中千本を一望できる高城山展望台、そして大和国四水分神社筆頭の式内大社である、吉野水分(みくまり)神社を目指す。本居宣長は、水分社に父母が祈願してようよう自分は生まれたと信じ、13歳の時にお礼詣でをしたと『菅笠日記』に記した。「…よき人のよく見て。よしといひおきける。吉野の花見にと思ひたつ」とやって来た吉野はすでに青葉で悔しいと本居は続けるが、展望台から見渡す紅葉、黄や茶褐色の桜樹が雲海のようになびく様も、それはそれでまた美しい。
宮滝への道の途中、高滝を見下ろす僅かな平地には本居の「父母の昔思へば袖ぬれぬ水分山に雨は降らねど」の歌碑があった。ここから先は「万葉の道」にもなっている象(きさ)の小川沿いに桜木神社、そして終着点の宮滝である。展望台から休憩なしで約2時間、古く宮や離宮が営まれた皇族行幸の地では、吉野歴史資料館が昔物語を語ってくれている。

※この紀行文は2009年11月取材時に執筆したものです。諸般の事情で現在とはルート、スポットの様子が異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。

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