剣豪たちの歩いた柳生みち

文=太田耕治

(おおた こうじ)紀行ライター。共著に『街道・古道を歩く 関西周辺』(山と溪谷社)など多数。

奈良盆地の東に広がる丘陵地帯は、奈良を国中と呼ぶのに対して東山中といわれた。山間に小盆地があり、丘陵の気候は冷涼で、いつのころからか大和茶の栽培が盛んとなった。この山間の小盆地をつたうようにして、奈良町と柳生陣屋を結ぶ「柳生みち(やぎゅうみち)」がある。
近鉄奈良駅から興福寺や春日大社を過ぎて新薬師寺の横を通り、能登川の渓流に沿って歩く。この渓流はいたるところに小さな滝をつくっていて、「滝坂道(たきさかみち)」と呼ばれていた。もとは奈良時代からの古道で、笠置(かさぎ)へ続く巨石信仰の道だったのかもしれない。深くえぐれた道には、江戸時代に奈良奉行によって敷かれた石畳が苔むして残り、進むに従って春日山の森の奥深くに入る。柳生みちのハイライトはなんといってもこの滝坂道だ。
滝坂道を歩く上での楽しみは、街道のたたずまいもさることながら、道筋にある多数の石仏だ。歌人・会津八一(あいづやいち)が「その表情笑ふが如く、また泣くが如し」と評した夕日観音や朝日観音。誰が名付けたか首切地蔵。そして地獄谷石窟仏(せっくつぶつ)や別名穴仏といわれる春日山石窟仏などの石仏である。多くの石仏は鎌倉時代のものと推定されているが、春日山石窟仏だけはその中の大日如来の銘文から藤原時代(894~1285年)のものであることがわかっている。

尾根に登りつくと、立派なドライブウェイに出くわすのでちょっと興ざめするが、しばらく行くと石切峠だ。ここに風情たっぷりの茶店が一軒あって、うまい草餅を食べさせてくれる。真偽のほどは定かではないが、屋内にはかつて武芸者が代金の質に置いていったという鉄扇や槍が並べてある。そういった時代からこの茶店は営業しているのだそうである。
石切峠から林道を下ると上誓多林(かみせたりん)。美しい茶畑の広がる集落である。「東海自然歩道」の道標はあるが、枝道も多いので注意して歩かねばとんでもないところへ出てしまう。道標を信じて林道を離れ、山道を円成寺に向かう。倒木があったりはするが歩きにくいわけではないし木洩れ日が心地よい。山道が国道369号線に出ると道の向こうが円成寺である。
円成寺は柳生みち第一の名刹といわれるだけに見応えは充分。庭園をすかして見える檜皮葺きの楼門(重文)が軽快な装いで美しい。
柳生への道はここから国道に沿って田や畑の間を行く。大柳生の集落の手前、田の中に繁る森は夜支布(やぎゅう)山口神社だ。御神体だという巨大な石が境内にある。田の中の道をさらに行くと、柳生藩初代藩主・柳生宗矩(むねのり)の側室となった村娘・お藤の逸話が残る「おふじ井戸」があり、近くに慎ましやかな古寺・南明寺(なんみょうじ)がある。寺を後に山道に入って小さな峠を越えると柳生の里は近い。道端や脇道に点在する疱瘡(ほうそう)地蔵や六体地蔵、寝仏などの石仏を眺めながら歩くうちに柳生の里へ入っていく。

柳生宗矩以来、徳川家の信頼が厚く、宗矩の父、柳生石舟斎(宗厳)を流祖とする剣術、柳生新陰流は将軍家御流儀として隆盛した。そして柳生の里は幕府にとって重要な京都を睨む軍事上の要衝、柳生家の菩提寺である芳徳寺もまた城としての性格をあわせ持っていたといわれる。
柳生の里で目を引くのは、見事な石垣をめぐらした家老・小山田主鈴の屋敷跡である。屋敷は戦後、作家・山岡荘八の別邸になり、小説『春の坂道』の構想もここで練られたという。かつて柳生石舟斎の草庵があった芳徳寺の高台に立つと、里の景色がひときわ美しい。

柳生からしばらく行くとあたや地蔵といわれる磨崖仏(まがいぶつ)がある。かつてこのあたりに阿対寺があったことからそう呼ばれているらしい。阿弥陀如来と地蔵菩薩が刻まれ、地蔵菩薩は子宝の霊験があると古くからの尊崇が厚い。この先の「東海自然歩道」を歩くと笠置山にさしかかり、やがて山頂近くになると笠置寺の入口がある。
笠置山は山中いたるところに奇岩が露出する霊地であり、奈良時代には本尊の弥勒磨崖仏や虚空蔵磨崖仏が造立された。清少納言が「寺は笠置」と枕草子に書いた本尊は、後醍醐天皇が鎌倉方と戦った元弘元年(1331年)の兵火で焼失して光背のみになったが、それでも山内にはなお雄大な磨崖仏が存在する。山内の奇岩を巡ると足下に木津川の流れが日に照り輝いて美しい。JR笠置駅へ下る途中には後醍醐天皇の行在所(あんざいしょ)がある。

※この紀行文は2009年11月取材時に執筆したものです。諸般の事情で現在とはルート、スポットの様子が異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。

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