龍田大社と廣瀬神社をつなぐ道 大和川の歴史をたどる

  • 龍田大社と廣瀬神社をつなぐ道 大和川の歴史をたどる
  • 古代より物資を運ぶ水路として利用されてきた大和川。
    その周辺は古くから政治、経済、文化の中心地として栄え、遺跡や古墳、由緒ある神社仏閣が数多く残っています。
    風神を祀る霊験あらたかな龍田大社から、紅葉の名所竜田川、聖徳太子ゆかりの斑鳩の里を抜けて、砂かけ祭りで知られる廣瀬神社へ。
    四季を彩る水辺の風景と歴史ある社寺の魅力を味わえる、見どころ満載のルートです。

龍田大社(たつたたいしゃ)

龍田大社(たつたたいしゃ)

歴代の朝廷からも深く信仰された由緒ある神社で、天御柱命(志那都比古神)と国御柱命(志那都比売神)をお祀りしています。祭神は、別名を龍田神・龍田風神ともいい、社伝によると、崇神天皇の御代に凶作が続いたとき、夢でこの風神のお告げをうけて創建されたということです。延喜の制では名神大社に列し、古くから五穀豊穣・航海安全に霊験ありとして崇敬を集めています。旧社格は最高の官幣大社。天武4年(675年)から営まれているという風鎮祭が毎年7月第1日曜日に行われ、風鎮太鼓や風神花火を奉納します。

三室山(みむろやま)

三室山(みむろやま)

標高82mの三室山の「みむろ」は、「御室」「三室」と書き、神の鎮座する山や森を表します。飛鳥時代、聖徳太子が斑鳩宮造営にあたり、太子の出生地の飛鳥神名備の産土神を龍田に近い山に勧請されました。その山を神名備山とも、三諸山ともいったといいます。頂上の五輪塔は、高さ1m90cmで、無銘の遺品ですが、もともと神南の集落にあったもので、能因法師の五輪塔と伝えられています。

竜田川(たつたがわ)

竜田川(たつたがわ)

「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 から紅に 水くくるとは」と詠んだ在原業平の歌、「嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の錦なりけり」と詠んだ能因法師の歌で有名な竜田川です。また、「たつたあげ」という料理がありますが、この竜田揚げも竜田の紅葉から名付けられたといわれています。いずれも赤く色づく紅葉の有様から詠まれたり名付けられたりしたものです。

龍田神社(たつたじんじゃ)

龍田神社(たつたじんじゃ)

聖徳太子が16歳のとき、飛鳥から来られて、法隆寺建立の馳を竜田川に沿って探しておられました。この折りに白髪の老人が現れて「ここから東に斑鳩が群棲している郷がある。優れた土地である。そこに伽藍を建てなされ。」と告げ、そこは仏法が末永く興隆する地として伽藍建立に適したところであるといいます。太子が白髪の老人にどういう方かとお尋ねすると、「私は龍田山の裾に住み、秋の紅葉を楽しんでいる間に千余年をすごしてしまった。」といったので、太子は「あなたはこの地の守護神なのですね。私が建立する寺をお守り下さい。」とお願いすると、「吾、守護神たらん。」といわれました。この、老人こそが、龍田明神の化身であったといいます。しかし、三郷立野の龍田大社(本宮)は遠いので、斑鳩に龍田神社を祀って、法隆寺を鎮守したと伝えられています。

藤ノ木古墳(ふじのきこふん)

藤ノ木古墳(ふじのきこふん)

藤ノ木古墳は、6世紀後半に築造された直径50m以上、高さ約9mの円墳です。南東方向に開口する全長13.95mの両袖式の横穴式石室内に納められた朱塗りの刳抜式家形石棺が確認されました。
また、石室の奥壁と石棺との間からは、「金銅装透彫鞍金具」に代表される世界でも類例のない装飾性豊かな馬具の出土により一躍有名となりました。石棺内は盗掘を受けていないことから、二体の人物が埋葬当時の状態であることが明らかとなりました。副葬品には、金銅製の冠や履や筒形品などの金属製品のほか、玉纏大刀や剣などの刀剣類、銅鏡、金メッキを施した銀製空玉やガラス玉など多量の玉類などがありました。これらの出土品は現在、橿原考古学研究所附属博物館で常設展示されています。
平成3年の国史跡指定後は、墳丘周辺の史跡地の公有化を進めるとともに、羨道の閉塞部や古墳の形や大きさを確認するための発掘調査や、石材の動きを測定する動態調査を実施しました。

御幸橋(御幸瀬ノ渡・川合浜跡)(みゆきばし(こごのせわたし・かわいはまあと))

御幸橋(御幸瀬ノ渡・川合浜跡)(みゆきばし(こごのせわたし・かわいはまあと))御幸橋(御幸瀬ノ渡・川合浜跡)(みゆきばし(こごのせわたし・かわいはまあと))

今の御幸橋より東側、旧廣瀬街道に続く位置に、明治の初めまで渡し場があり、対岸の笠目との往来に利用されていました。また、江戸時代に盛んであった「魚梁舟(やなぶね)」を使った舟運による荷揚げ場や舟問屋もここにあり、「川合浜」と呼んでいました。
「御幸瀬」の名称の由来について、享保9年の『川合村諸色明細帳』には、天武天皇13年に天武天皇が廣瀬神社と龍田神社に行幸した時に、大河に橋を渡した旧跡を「行幸(みゆき)ノ瀬」というと記されています。また、元明天皇が廣瀬神社に行幸の折に板橋を架け、廣瀬川(大和川)を渡られたことにちなんで、その橋を「御幸橋」と呼び、後世に橋が無くなり舟で渡すようになると「御幸瀬」と呼ぶようになったとも伝えられています。
 舟渡しが無くなった後、新たに大和川に橋が架けられ、「御幸橋」と名付けられました。

廣瀬神社(ひろせじんじゃ)

廣瀬神社(ひろせじんじゃ)廣瀬神社(ひろせじんじゃ)廣瀬神社(ひろせじんじゃ)

『日本書紀』天武天皇4年(675)条に記事が見られる廣瀬神社は、奈良盆地の多くの河川が合流して大和川となる水上交通の要衝に位置しています。神社に伝わる『河相宮縁起』では崇神天皇(すじんてんのう)の時代の創建とされています。地理的条件や周辺の遺跡の状況から、遅くとも7世紀以前には既に信仰の母体となるものがあったと考えられます。天武天皇4年に龍田の風神とともに祭祀が行われて以降、戦国時代に途絶えるまで毎年4月と7月に朝廷より使者が遣わされ、祭祀が行われていました。戦国時代から江戸時代初期にかけて一時衰退しますが、元禄年間に復興し、旧廣瀬郡の総氏神として広く崇敬を受けるようになりました。祭神は大忌神の異名を持つ若宇加能売命で、水の神、水田を守る神、五穀豊穣の神として篤く信仰されています。
現在に残る最古の建物は、正徳元年(1711)に造営された本殿です。この本殿は一間社春日造の様式をよく伝えるものとして、奈良県指定文化財(建造物)に指定されています。
毎年2月11日に行われる「砂かけ祭り」は御田植祭で、砂を雨に見立ててかけ合い五穀豊穣を祈る祭りです。この祭りは河合町の歴史を考える上で重要なものとして、河合町指定無形民俗文化財に指定されています。

大塚山古墳(おおつかやまこふん)

大塚山古墳(おおつかやまこふん)大塚山古墳(おおつかやまこふん)

大塚山古墳は前方部を南に向けた前方後円墳で、全長197mの規模を誇る、河合町で最大の古墳です。出土した埴輪の特徴などから5世紀後半(約1550年前)に造られたと考えられています。
墳丘の周囲には濠と堤が巡り、最近の発掘調査で堤の外側にも外濠が巡っていたことがわかってきました。後円部墳頂には窪地があり、かつて石材も散乱していたことから、埋葬施設は不明ですが、竪穴式石室と推定されます。
大塚山古墳群の被葬者は不明ですが、大和川の水運と密接な関わりを持った人物と考えられます。

宮堂遺跡(みやどういせき)

宮堂遺跡(みやどういせき)宮堂遺跡(みやどういせき)

大塚山古墳の東側、旧河道に囲まれた微高地上に広がる遺跡です。縄文時代晩期の土器や石器が出土し、集落があったと考えられます。古墳時代の竪穴式住居跡も確認されており、大塚山古墳群を造った人々の集落があったものと思われます。
飛鳥時代以降の土器も多く出土しており、古墳時代に引き続き建物群が存在していたようです。また、廣瀬神社に伝わる古絵図に描かれている定林寺があったのも宮堂遺跡の位置だと考えられています。

長林寺(ちょうりんじ)

長林寺(ちょうりんじ)長林寺(ちょうりんじ)

嘉禎―建長年間(1235~1256)頃に成立した『太子傳古今目録抄(聖徳太子傳私記)』等に聖徳太子建立の四十六箇寺の一つであり、推古天皇の願いにより建立されたと伝えています。昭和62年・63年の発掘調査の結果、聖徳太子が活躍した7世紀初頭頃には小さな建物があった可能性はありますが、三重塔や金堂、講堂など七堂伽藍が整ったのは7世紀後半と考えられます。出土した瓦の中に「長倉寺瓦」とヘラ書きされた丸瓦があり、長林寺が「長倉寺」とも呼ばれていたことを示すとともに、長林寺の所在地の「穴闇(なぐら)」は、もとは「長倉」であったことがわかります。
長林寺は何度も火災に遭い、室町時代には「観音堂」と呼ばれる建物があるだけでした。現在の長林寺は江戸時代の正徳4年(1714)に矢田村(現在の大和郡山市矢田)の發志院の古篆和尚が再興したお寺で、現在の本堂は文久元年(1861)頃の建立と見られています。