奥吉野に散る太刀の血煙・明治維新の魁「天誅組」最後の日(終焉の地)

  • 奥吉野に散る太刀の血煙・明治維新の魁「天誅組」最後の日(終焉の地)
  • 明治維新よりさかのぼることわずか5年、文久3年(1863)8月17日。孝明天皇の大和行幸に先立ち、天皇の鳳輦をお迎えすべく大和五条の幕府代官所を襲撃した天誅組。いち早くその天領7万石余りを支配下に置き新たな時代の到来を宣言しましたが、襲撃の翌日の18日に起こった京都における大政変により、大和行幸は延期となり、皇軍の先鋒という天誅組の大義名分は一夜にして失われます。一転して幕府、各藩からの追討を受けることとなり、奈良県各地を転戦した彼らは、満身創痍の状態で奈良県南部の山塊を踏み越えて9月24日、武木村(現・川上村武木)へ到達します。村での会食の後、足の郷道を越えて鷲家口(現・東吉野村小川)へと向かう一行でしたが、既に鷲家口は追討軍で固められていました。最後の会食をとった武木村から、天誅組終焉の地鷲家口まで、新しい時代の到来を夢見て奥吉野に散った「維新の魁・天誅組」の最後の一日をたどります。

天誅組(てんちゅうぐみ)

幕藩制度の過酷な支配体制を打ち破って王政を復古させようと行動を起こした志士達で、主将は明治天皇の前侍従中山忠光卿。総裁には、備前岡山出身藤本津之助(鉄石)、三州刈谷出身松本謙三郎(奎堂)、土州津野山郷出身吉村寅太郎の三総裁。そのほかに河内の豪農である水郡善之祐、土佐勤王党の那須信吾、大和中宮寺の侍講で国学者の伴林光平など、約80名の多彩な人達が加わっていました。
文久3年8月14日、孝明天皇が攘夷祈願のために大和へ行幸すると仰せられたのをきっかけに決起し天皇の鳳輦を迎えようと、京都を出発。堺を経て、17日には大和五条の代官所を襲撃し、天領7万石余りを支配下にしました。ところが翌18日には「天皇の大和行幸の延期」「尊攘派公家の参内禁止」などからなる大政変が京都で起こり、皇軍の先鋒という大義名分も失われました。その後も再び大和行幸が行われることを信じ、十津川で兵を募って高取城を攻撃したり、各藩の追討軍を相手に各地で奮戦を続けましが、戦局は次第に不利なものとなりました。再起を誓いながらやむなく新宮から海路長州へ逃れようとしましたが紀州勢にはばまれてそれもかなわず、十津川村、下北山村、上北山村と北上し、川上村武木を経て足の郷峠越で東吉野村鷲家口における追討軍との最後の戦いで終焉を迎えました。
徒労に終わっただけの暴挙と見られがちな天誅組の行動ですが、彼らの精神は5年後に明治維新となって実を結び、立派に受け継がれたのです。鷲家口で無念の最期を遂げた志士は今も村の人々の温かい手により守られています。

武木集落(たきぎしゅうらく)

武木集落(たきぎしゅうらく)武木集落(たきぎしゅうらく)

文久3年9月24日、中山忠光達一行は伯母谷、北和田、白川渡を経て武木へたどり着きましたが、前日来徹夜で歩き続け疲れ果てていました。一行は武木の人たちにあたたかく迎えられ、数軒に分かれて休息を取りました。そのとき、忠光は鰹節と勝栗のもてなしを受け非常に喜んだとされています。
一行は武木で最後の昼食をとった後、足の郷峠を越え、鷲家口(現小川)へ向かいました。

武木村(たきぎむら)から足の郷峠を越えて鷲家口村(わしかぐちむら)へ

武木村(たきぎむら)から足の郷峠を越えて鷲家口村(わしかぐちむら)へ

9月24日、足の郷峠を越えて鷲家口へ出るべく武木村を出立した天誅組でしたが、鷲家口付近は既に彦根藩と紀州藩によって固められていました。
それを察知した一行は、主将中山忠光卿を脱出させるために、那須信吾を隊長とする決死隊が敵陣を混乱させ、その隙に本隊を逃がす作戦をとります。決死隊6名は出店坂を下って彦根藩本陣に突入、先頭の植村定七は敵の歩兵頭を討ち取った直後に銃弾に倒れ、つづく5人もすさまじい奮戦の末、一人また一人とその最期を遂げました。
決死隊の突撃にかく乱されて敵勢が怯んだところへ、突入した本隊は、中山卿を護りつつ敵を払いのけて進軍を試みましたが、その間に味方は散り散りとなります。とてもこの先で待ち受ける紀州勢を突破することはできない状況となり、各自大阪の長州屋敷を目指すことを決し、ここに天誅組は本隊を解散、中山卿は6名を従えて西側の山に登り脱出しました。
 
本隊とは別に傷病者を抱えた後陣が3、4組に分かれて足の郷道を進んできましたが、戦闘力に乏しい彼らは敵陣を突破することは不可能であるため、鷲家口を避けてそれぞれの道を進みました。
松本奎堂と藤本鉄石一行は蟻通神社(現・丹生川上神社)を経由して高見川を遡り、庄屋松本清兵衛宅に潜伏、一夜明けて脱出を試みましたが、待ち受けた紀州藩の手によって倒れました。
高取城攻めで傷を負った吉村寅太郎一行は三畝峠から小村へ下り、庄屋堂本孫兵衛宅に潜伏、26日まで潜伏していましたが、追討軍の捜索は厳しく、同家を出て27日早朝、薪小屋で休んでいるところを発見され、津(藤堂)藩の銃弾にたおれました。
足の郷道を越える途中、吉村は人夫達の担ぐモッコに身を委ね、絶望的な状況にありながら「辛抱せよ、辛抱せよ、辛抱したら世は変わる。それを楽しめ。」と人夫達を励ましたと伝わります。
 
大阪や京都へ無事にたどり着けたのは、中山卿以下7名の一行のほかは数名だけでした。

宝泉寺(ほうせんじ)

宝泉寺(ほうせんじ)宝泉寺(ほうせんじ)

天誅組事変の際、鷲家口(現在小川)に布陣した彦根勢が篝火の代わりに寺を焼こうとしたのを、当時の和尚が阻止したといういわれのある寺で、鷲家口で戦死した義士や彦根藩士の菩提寺として、毎年11月5日には天誅組の慰霊祭が行われています。
寺の前には天誅義士記念の碑(大正2年建立)が立ちます。

竜泉寺(りゅうせんじ)

竜泉寺(りゅうせんじ)

鷲家や伊豆尾で討たれ、湯ノ谷墓地に埋葬された天誅組義士の菩提寺となっている竜泉寺は、元亀元年(1577)の開創で、境内には広く信仰を集めている野見観音がまつられています。
また、寺宝の釈迦如来座像は像高47センチメートルの小柄な像ですが、平安時代初期の桧材寄木造りで県の重要文化財に指定されています。

吉村寅太郎原えいの碑(よしむらとらたろう げんえいのひ)

吉村寅太郎原えいの碑(よしむらとらたろう げんえいのひ)吉村寅太郎原えいの碑(よしむらとらたろう げんえいのひ)

残念岩のところで幕府方追討軍藤堂藩士により銃殺された天誅組総裁吉村寅太郎は、村人の手によってこの岩の根元に埋葬され、士方直行(土佐出身)の筆によって原えいの碑が立てられました。
明治29年明治谷墓地へ改葬された後は、この碑はここに倒れた吉村寅太郎を偲ぶ祈念碑となっています。

明治谷墓地(みょうじだにぼち)

明治谷墓地(みょうじだにぼち)

この地で戦死した天誅組の吉村寅太郎・那須信吾・宍戸弥四郎・植村定七・林豹吉郎・山下佐吉・鍋島米之助らを祀る墓地です。

湯ノ谷墓地(ゆのたにぼち)

藤本鉄石・松本奎堂・森下幾馬・森下儀之助・福浦元吉・村上万吉を祀る墓地です。

ホテル杉の湯(ほてるすぎのゆ) 

ホテル杉の湯(ほてるすぎのゆ) ホテル杉の湯(ほてるすぎのゆ)

公営で初めての政府登録国際観光旅館です。吉野杉の杜に包まれ、ヒノキや天然石造りの露天風呂があり、客室やレストランからは川上村の雄大な山並を眺めることが出来ます。泉質は単純温泉(低張性・中性・低温泉)で効能は、神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔症、冷え性、病後回復気、疲労回復、健康増進です。
日帰り入浴(定休水曜日)の受付は午前11:00~午後2:00までです。

森と水の源流館(もりとみずのげんりゅうかん)

森と水の源流館(もりとみずのげんりゅうかん)

「森と水の源流館」では、日本最大級のパノラマの源流の森シアターや吉野川・紀の川を再現した川をさかのぼるコーナー、川・森のおもしろ体験フィールド等でみなさんを源流(「源流学」)へといざないます。
自然や環境、生き物たち、いにしえからの人々の暮らしなどにふれ、源流とは何か、私たちの暮らしとどんな関係があるのか、「森と水の源流館」でいっしょに体験してみませんか?

丹生川上神社上社(にうかわかみじんじゃかみしゃ)

丹生川上神社上社(にうかわかみじんじゃかみしゃ)

「この里は丹生の川上ほど近し、祈らば晴れよ五月雨の空」と後醍醐天皇の歌に詠まれた由緒ある神社です。
天武天皇4年(675)に社殿が建てられて以来、奈良時代から室町時代にかけ祈雨・止雨の神として知られています。
しかし、応仁の乱の後は奉幣も中止され、いつしか、神社の所在すら不明となってしまいました。
幕末から明治・大正期の所在地考証によって現在は、上社、中社、下社と称されている異なる三社が候補に挙げられ、現在に至っています。

白屋岳(しらやだけ)

白屋岳(しらやだけ)白屋岳(しらやだけ)

足の郷峠付近の登山口より山へ入ると杉林に作業道が続いており30分ほど緩やかに作業道を登ると山道に入ります。尾根に出てシャクナゲの尾根道を登るとすぐに白屋岳頂上へと到着します。山頂からは台高や大峰を望むことができます。
5月中旬、頂上付近に咲き乱れるシャクナゲは見ものです。

丹生川上神社中社(にうかわかみじんじゃなかしゃ)

丹生川上神社中社(にうかわかみじんじゃなかしゃ)丹生川上神社中社(にうかわかみじんじゃなかしゃ)丹生川上神社中社(にうかわかみじんじゃなかしゃ)

白鳳4年(675年)、天武天皇創建。祭神は、水に関する一切をつかさどる罔象女神(みづはのめのかみ)。
神武天皇が、戦勝祈願した地という伝承や天武朝以降、たびたび行われた吉野行幸の離宮後地説もあり、歴史の重みを感じさせてくれます。また、境内の弘長4年(1264年)の銘のある石燈籠(国指定重要文化財)も当社が長い歴史を受け継いできたことを物語ります。
神社のすぐ東で美しい水しぶきを上げる東の滝をはじめ、四季折々の自然に彩られた丹生川上神社は、参拝に来られる人たちの心をきっと癒してくれます。