斑鳩から飛鳥へ 聖徳太子の往来道・太子道(筋違道)

  • 斑鳩から飛鳥へ 聖徳太子の往来道・太子道(筋違道)
  • 万葉の時代に、聖徳太子が「斑鳩の里」から「三宅の原」を経て、「飛鳥の宮」とを往来された道が「太子道」です。
    この道路は、条里制の南北方向の地割りに斜交(北方向約20度西、南方向約20度東)している道で、別名「筋違道」とも呼ばれています。中世以降は、「法隆寺」街道とも呼ばれ、生活道路として盛んに利用され、現在も町道三宅70号線として活用されています。

法隆寺(ほうりゅうじ)

用明天皇自らが、ご病気の平癒を祈り薬師如来と寺の造営を発願されましたが、まもなく崩御されたため、推古天皇と聖徳太子がそのご遺志を継いで、607(推古15)年に「寺」と「薬師如来」を造られました。
1993(平成5)年12月、姫路城とともに日本で初めてユネスコ世界文化遺産に「法隆寺地域の仏教建造物」として法起寺とともに登録されました。

法起寺(ほうきじ)

法起寺(ほうきじ)

法起寺は、太子の岡本宮を太子の遺言により、山背大兄皇子が寺に変えたもので、地名から岡本宮、池のそばにあったので池尻寺ともいわれています。
三重塔は、706年に完成したとされ、高さ24メートルの塔は最古のもので、法隆寺伽藍と共に世界文化遺産に登録されています。創建当時のものは、三重塔だけで、三重塔としては最古最大であり、飛鳥時代の建築様式を今に伝えています。

法輪寺(ほうりんじ)

法輪寺(ほうりんじ)

法輪寺の三重塔は、法隆寺・法起寺とともに斑鳩三塔と呼ばれています。創建については、2つの説があり、一説には622(推古30)年に聖徳太子が自らの病気平癒を祈願し建立を発願、その子山背大兄王と孫由義王(ゆぎおう)が建立したという説で、もう1つは、670(天智9)年の斑鳩寺の炎上後に百済の開法師・円明法師・下氷新物が合力して建立したという説です。
また、境内には会津八一の歌碑があります。

中宮寺(ちゅうぐうじ)

中宮寺(ちゅうぐうじ)

聖徳太子が、母の穴穂部間人皇后の宮を寺に改めたと伝わる飛鳥時代創建の寺院で、室町時代に尊智女王が入寺以来、尼門跡寺院として1400年物永きにわたり、法統が守られています。
本堂には“世界三大微笑像”といわれる国宝の木造菩薩半跏像が安置されています。右足を左膝の上にかけ、左手は右足首に添え、右手は肘を右膝の上について指先で軽く右頬にふれる姿をしており、半跏思惟の相といいます。寺伝では如意輪観音と称しています。

駒塚古墳(こまづかこふん)

駒塚古墳は聖徳太子の愛馬である黒駒の墓であるといわれています。黒駒は、太子が27歳のときに全国から集められた中の1頭で、毛色は黒で、脚の爪のところだけ白い美しい馬でした。太子はこの黒駒にまたがり、斑鳩から飛鳥京に通われ、また諸国を巡ったのだといわれています。
聖徳太子が49歳で、お亡くなりになった時のことです。黒駒は悲しんで水も飲まず、草も食べません。太子がいつも使っていた鞍を背に乗せてもらい、河内磯長の御陵までお供をし、太子の棺がお墓に入ると、大きな声でいななき、ばったりと倒れ、息絶えてしまいました。
発掘調査をした結果では、4世紀中頃の古墳と考えられています。

調子丸古墳(ちょうしまるこふん)

古墳の裾をほとんど削り取られ、水田にされてしまっているので、規模を明確にしにくいのですが、径14メートルほどの古墳と思われます。埴輪から、5世紀頃の古墳と考えられています。
調子丸古墳は、伝説では聖徳太子の愛馬黒駒の轡をとっていた調子丸という舎人の墓であるといわれています。調子丸は多くの舎人の中でも常に太子のおそばに仕えていました。太子が13歳の時に18歳で百済から来たといわれています。

上宮遺跡公園(かみやいせきこうえん)

上宮遺跡公園(かみやいせきこうえん)

斑鳩町のふるさと創生事業の一環である「歴史街道ネットワーク計画」の拠点施設として、「歴史・緑・水」をテーマに建設。地域住民の憩いの場とともに、歴史学習体験の場として平成4年11月に竣工しました。
公園の周辺には、駒塚古墳・調子丸古墳・成福寺など、聖徳太子ゆかりの歴史が多く残されています。公園建設に伴う発掘調査では、奈良時代の宮殿クラスの掘立柱建物跡、平城京と同じ文様軒瓦のほか、井戸跡も確認されました。旧地名をとって上宮遺跡と名付けられました。

飽波神社(あくなみじんじゃ)

飽波神社(あくなみじんじゃ)

聖徳太子が祀られ創立したと伝えられる、東安堵・西安堵の氏神。素盞嗚命(すさのおのみこと)をまつっています。境内には太子ゆかりの御幸石や影向石(非公開)があり、本殿(県指定文化財)には、太子の到着を歓待した伝承にちなみ、雀の姿が刻まれています。当社では雀を神の使いとして大切にしたといいます。
他に雨乞いにかかわる民俗芸能・「なもで踊り」の絵馬や道具等(県指定文化財)が伝えられています。近年保存会の設立により、新調・なもで踊りとして復活され、秋祭りの奉納で披露されます。

富本憲吉記念館(とみもとけんきちきねんかん) *現在閉館中。平成24年10月13日(土)より富本憲吉文化資料館として開館予定。

富本憲吉記念館(とみもとけんきちきねんかん)

当町出身の陶芸家・富本憲吉(1886~1963)は陶芸の分野を芸術の領域にまで押し上げ、近代陶芸を確立した先駆者。長年の研究により、金銀彩の色絵磁器の技法を確立し、1955年に最初の重要無形文化財保持者(人間国宝)のひとりとして認定されました。
氏は日常用いる陶器の制作にも思いをなし、また「模様から模様をつくらない」と、自ら生み出す図案の創出にも心を注いだ。そのモチーフの中には当町のさまざまな風景や自然の姿が採り入れられ、「竹林月夜」等の作品に見ることが出来る。
1949年から生家跡に作品を展示する当館は、往時から伝わる長屋門や土蔵、氏が愛した離れ座敷などの建物も観覧できます。

安堵町歴史民俗資料館(あんどちょうれきしみんぞくしりょうかん)

安堵町歴史民俗資料館(あんどちょうれきしみんぞくしりょうかん)

奈良の地が堺県、大阪府に属していた明治時代、奈良県再設置運動に尽力した今村勤三(1852~1924)の生家を展示施設として公開しています。幕末に出た今村文吾(1808~1864)は医師として、また「晩翠堂(ばんすいどう)」の塾長として、国学者・伴林光平(1813~1864)等とも密接な交流を持っていました。茶室の丸窓は天誅組の変(1863)に参加後逃れた伴林が、文吾への手紙にわが子への金銭を包み投げたとも伝えています。
他、町の歴史にかかわる歴史や民俗資料の展示、実演や体験が行われます。特に当町で盛んであった灯芯(とうしん)の展示が珍しいです。

極楽寺(ごくらくじ)

極楽寺(ごくらくじ)

聖徳太子により587年に開創されたと伝える真言宗寺院です。山号は紫雲山で、もと常楽寺という寺院であったと伝えられています。本尊の阿弥陀如来座像は11世紀後半、藤原時代の作。像高139センチの半丈六仏で国の重要文化財に指定されています。本堂内には聖観音立像や奈良時代に書写され、現在まで伝えられる大般若経六百巻が残されています。
堂横の収蔵庫には通称「広島大仏」と呼ばれる、もと広島、原爆ドーム東南側にある西蓮寺の阿弥陀如来座像(鎌倉時代)が安置されています。
毎年5月には大般若経の転読会の行事があり、法要がおこなわれます。

重要文化財 中家住宅(じゅうようぶんかざい なかけじゅうたく)

重要文化財 中家住宅(じゅうようぶんかざい なかけじゅうたく)

窪田集落内にある中家住宅は、二重の濠に囲まれた、平城様式を示す環濠屋敷です。中氏は戦国時代に筒井順慶で知られる、筒井氏の一統として活躍し、当地域を領知していた在地武士・窪田氏の系譜を受け継ぐが、江戸時代には当地で帰農し、窪田村の庄屋役などを務めました。昭和43~53年に重要文化財の指定を受け、一般に公開されています。
正面表門前のはね橋は外せる板がかけられ、外部からの侵入を断つことができます。茅葺きが美しい大和棟の主屋内にはかまどがすえられ、勘定部屋、戸棚風呂などが備えられています。他に「勅使の間」と呼ばれた新座敷や外濠に建つ同家の持仏堂、聖天堂、庫裏など見どころが多いです。

面塚(めんづか)

面塚(めんづか)

「室町時代のある日のこと、一天にわかにかき曇り、空中から異様な怪音とともに「能面」と「葱」が降ってきた・・・。」という伝説が残る観世流能楽発祥の地。観世座は、観阿弥・世阿弥の出現によって能楽完成に偉大な功績を残しました。碑はこれらを記念して建てられ、そこに刻まれた「観世発祥之地」の文字は二十四世観世左近の筆によるものです。
隣接する面塚公園とともに今も憩いの場として親しまれています。

島の山古墳(しまのやまこふん)

島の山古墳(しまのやまこふん)

全長190メートル、前方部長92メートル、同幅93メートル、同高11.01メートル、後円部径98メートル、同高17.42メートル、盾形周濠(南北265メートル、東西175メートル)をもつ全国40位、奈良県下20番目の規模の前方後円墳です。築造時期は4世紀末~5世紀初で、この時期の古墳としては最大規模です。
平成八年(1996)に前方部の調査で出土した遺物には、棺外遺物として133点の石製腕飾類、棺内遺物として鏡、石製合子、首飾り、腕輪等があります。

糸井神社(いといじんじゃ)

糸井神社(いといじんじゃ)糸井神社(いといじんじゃ)

中世頃は「結崎宮」、江戸期では「春日神社」と呼ばれていましたが、享保21年(1736)に編纂された「大和志」上でこの宮が「延喜式神名帳」に記された糸井神社であると断定され、今に至ります。本殿は江戸時代中期を降らない遺構と考えられます。
所蔵される「おかげ踊り絵馬」「太鼓踊り絵馬」はともに19世紀半ばの作で、奈良県の文化財に指定されています。後者には、スイカを振舞う様子が描かれており、スイカ栽培の歴史を知るうえで興味深い資料です。

油掛け地蔵(あぶらかけじぞう)

油掛け地蔵(あぶらかけじぞう)

造立は大永三年(1523)、舟型光背の高さが約61センチメートルの地蔵立像です。できものを治してもらうよう願をかける際に、油をかける習わし(燃灯供養)があるため油掛け地蔵と名付けられました。
こんな伝説が残っています。田んぼから出てきたお地蔵様をまつっていたら、綺麗にすると病気になり、泥や油を掛けると病気は完治しました。ある日、できものが出来た子が、お地蔵様に願をかけましたが、その前で転びお地蔵様に汚れがつきました。それを放っておいたら治ったため、それ以来、泥や油を塗るようになり、できものを治すお地蔵様として知られるようになったそうです。

富貴寺・六縣神社(ふきじ・むつがたじんじゃ)

富貴寺・六縣神社(ふきじ・むつがたじんじゃ)富貴寺・六縣神社(ふきじ・むつがたじんじゃ)

富貴寺は平安前期・貞観時代に道詮律師が創建したといわれます。六縣神社と境を接し、もとは同社と一体でした。南北朝末期の寄棟造の建物である本堂は、本尊の木造釈迦如来坐像ともに国の重要文化財に指定されています。
六縣神社で毎年2月に行われる御田植祭は、妊婦の弁当運びの時に出産の所作が伴うことから子出来おんだ祭りとも呼ばれ、奈良県の文化財に指定されています。この行事の始りは、創建時と伝えられていますが明確ではありません。しかし、演じられる所作や台詞を見るとかなり古風な様式を持っていると認められます。

白山神社(はくさんじんじゃ)

白山神社(はくさんじんじゃ)白山神社(はくさんじんじゃ)

聖徳太子が愛馬の黒駒に乗り待者調子麿を従え、斑鳩宮から飛鳥の小墾田宮へ通われた道を「太子道」と呼んでいます。
白山神社には太子が休憩された「腰掛石」や黒駒を繋いだ「駒つなぎの柳」が残っています。また「屏風」という地名は、村人が太子をもてなすとき屏風をたてて風を防いだことから名づけられたと伝えられています。

屏風杵築神社(びょうぶきつきじんじゃ)

image030.jpg屏風杵築神社(びょうぶきつきじんじゃ)

この神社の祭神は須佐男命で出雲大社(杵築大社)系の神社です。拝殿には「おかげ踊り」「聖徳太子接待の絵馬」が奉納されています。また聖徳太子が従者の持つ弓で地面を穿かれ湧き出る水を愛飲されたと言い伝えられている「屏風の清水」があります。

忍性菩薩御誕生之地石碑(にんしょうぼさつごたんじょうのちせきひ)

忍性菩薩御誕生之地石碑(にんしょうぼさつごたんじょうのちせきひ)忍性菩薩御誕生之地石碑(にんしょうぼさつごたんじょうのちせきひ)

鎌倉時代の僧侶で、建保5(1217)年現在の三宅町屏風に生まれました。
生涯を病者や社会的弱者の救済、また、道路、橋の修復などに尽力し、多大の足跡を残したことから、我が国の社会福祉事業の先駆者といわれています。

三宅古墳群(みやけこふんぐん)

三宅古墳群(みやけこふんぐん)三宅古墳群(みやけこふんぐん)

五世紀後半、この地に小型の前方後円墳が多く築造されました。盆地の中央の低湿地に古墳群が存在するのは非常に珍らしく、価値ある古墳です。川西町の島の山古墳を北端として、南は黒田大塚古墳、東は石見の玉子遺跡までの間には多くの前方後円墳や墳丘が見られます。当時、大和朝廷が地方の豪族に命じ、但馬、石見、三河の国から使役として人を集め、この低湿地に排水工事やかんがい用水路を作り、稲作を奨励し、盛土に小型前方後円墳を築きその周りに濠を掘り、稲作の用水確保としたのではないかと考えられます。前方後円墳は王家の墓とも言われており、小型前方後円墳は王家一族の墓であり、この古墳群の中にオオツカやテンノウヅカの名を残すのも、その証ではないかといわれています。

法楽寺(ほうらくじ)

法楽寺(ほうらくじ)

「由緒書」によれば孝霊天皇黒田廬戸宮跡地に建立され、聖徳太子の開基とされています。長禄3年(1459)の墨書銘をもつ板絵が所蔵され、法楽寺の盛時の姿を伝えています。

秦楽寺(じんらくじ)

秦楽寺(じんらくじ)

真言律宗。秦河勝の建立と伝えられています。本尊の千手観音像は百済王から大化3年(647)に賜ったものとされますが、現在のものは平安時代の作です。脇侍は秦河勝と聖徳太子であるといいます。
本堂は形状が護摩堂そのものであり、転用されたものと考えられます。また、本堂前面にある「阿字池」は、弘法大師の築造と伝えられ、7~8月にかけて美しいハスの花が咲きます(要問い合せ)。

多神社(多坐弥志理都比古神社)(おおじんじゃ/おおにいますみしりつひこじんじゃ)

多神社(多坐弥志理都比古神社)(おおじんじゃ/おおにいますみしりつひこじんじゃ)

多神社は、多に所在する延喜式内大社です。神社の祭神は神武天皇・神八井耳命・神淳名川耳命(綏靖天皇)・姫御神(玉依姫)の四柱で、このうち神八井耳命は多氏の祖とされています。
多神社本殿は、県指定文化財であり、東西に1間社が並ぶ四殿配置の形式をとっています。四社とも南面した一間社春日造で、第一・二殿が1735年、第三・四殿が18世紀中頃の建造です。
当本殿は、昭和52年に檜皮葺から銅板葺に改められた以外は当初形式をよく残しています。

唐古・鍵考古学ミュージアム(からこ・かぎこうこがくみゅーじあむ)

唐古・鍵考古学ミュージアム(からこ・かぎこうこがくみゅーじあむ)

青垣生涯学習センター内にあります。唐古・鍵遺跡をはじめ、町内の各遺跡から出土した土器や石器等を展示しています。
開館時間:9:00~17:00 入館16:30まで
休館日 :月曜日 年末年始
観覧料 :大人     200(150)円
     高校・大学生 100(50)円
     15歳以下   無料
※()は20名以上の団体料金

藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)

藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)

持統天皇が694年に遷都した日本で最初の本格的な都城でした。わずか16年という短い栄華でしたが、この時代には大宝律令が制定され、二官八省と呼ばれる政治のしくみが誕生しました。そして、貨幣として和同開珎が発行され、貨幣の流通が徐々に広がっていったのもこの時代からです。
近隣にある橿原市藤原京資料室や奈良文化財研究所都城発掘調査部ではこれらに関する資料などを見ることができます。

本薬師寺跡(もとやくしじあと)

本薬師寺跡(もとやくしじあと)本薬師寺跡(もとやくしじあと)

西ノ京の薬師寺の前身にあたる寺の跡。天武天皇が皇后(持統天皇)の病気回復を祈願して、680年に建立に着手。完成しないうちに天武天皇が崩御されたので、持統天皇がその遺志を継いで完成させました。寺院は薬師寺式伽藍配置の典型で、東西両塔及び金堂の跡が顕著に現存しています。
また、本薬師寺跡周辺の休耕田を利用してホテイアオイが栽培されており、8月中旬~9月にかけ見頃を迎え多くの人を楽しませています。

大和三山(やまとさんざん)

藤原宮跡を取り囲むように三角形に位置する香具山・畝傍山・耳成山の3つの山は、奈良盆地のどこからでも眺めることができ、古くは神代の世から多くの人々に親しまれてきました。
またその美しい姿は万葉集にも数多く詠われており、その中でも、持統天皇の『春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣乾したり 天の香具山』の歌はとても有名です。大和三山は2005年に国の名勝に指定されました。

橿原市藤原京資料室(かしはらしふじわらきょうしりょうしつ)

橿原市藤原京資料室(かしはらしふじわらきょうしりょうしつ)

本資料室は、世界遺産登録(※)を目指している「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の構成資産である「特別史跡藤原宮跡」をより理解頂くことを目的に開室しています。
展示物は、藤原京の1000分の1模型(約6メートル×7メートル)や、柱・瓦の出土品、解説パネル、古代衣装を着たマネキン等、また、コンピュータグラフィックスにより作成したビデオ上映を行っており、雑誌等にも紹介されています。藤原京の築造や遷都などがわかる展示内容にしていますので、興味をお持ちの方は、「入場無料」ですので是非いらして下さい。
※「飛鳥・藤原の宮都とその関連遺産群」は、平成19年1月30日にユネスコ世界遺産暫定リストに登録されています。

甘樫丘(あまかしのおか)

甘樫丘(あまかしのおか)

標高148メートル。上に登ると飛鳥地方だけでなく、東の多武峰から西の生駒、信貴、二上、葛城、金剛の山々まで見渡せます。
「皇極天皇紀」には蘇我蝦夷・入鹿父子がこの丘に大邸宅を並べ建てたことが記されています。

飛鳥寺(あすかでら)

飛鳥寺(あすかでら)

飛鳥時代における最大の寺院であり、本格的寺院の最初。本尊は丈六の金剛釈迦如来坐像で飛鳥大仏としてよく知られ、鞍作止利の作と言われています。創建は「日本書紀」によると、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の対立に勝利した蘇我馬子が建立に着手し、596年に完成したとあります。

川原寺跡(かわらでらあと)

川原寺跡(かわらでらあと)

大官大寺や飛鳥寺とともに飛鳥三大字の一つであり、代表的な官寺でした。現本堂あたりは元中金堂のあった場所で、当時の瑪瑙(めのう)石と呼ばれる大理石の金堂礎石が残っています。

橘寺(たちばなでら)

橘寺(たちばなでら)

寺伝によると、聖徳太子御誕生の地とされ、聖徳太子創建の七寺の一つと伝えられています。創建当時は四天王寺式の伽藍配置で本尊は高さ45センチメートルの聖徳太子坐像です。太子堂の南側には、二面石と呼ばれる謎の石造物があります。