天誅組終焉の地、東吉野村へ

文=一坂太郎

(いちさか たろう)萩博物館特別学芸員・防府天満宮歴史館顧問。山口福祉文化大学特任教授。春風文庫主宰。主な著書に『高杉晋作を歩く』『坂本龍馬を歩く』『東京の幕末維新を歩く旅』(山と溪谷社)、『幕末歴史散歩 東京篇』『仁王』(中公新書)など。

江戸時代を通じて政治は幕府(将軍)の仕事であり、朝廷(天皇)は蚊帳の外に置かれていた。ところが幕末、将軍が欧米列強との間に開国の条約を結ぶや、外国嫌いの孝明天皇が憤慨。このため、公(朝廷)・武(幕府)間に大きな亀裂が入った。これを日本再生の好機と考えた長州藩を中心とする過激な攘夷派は、天皇の権威を盾にとり、幕府を追い詰めてゆく。将軍家茂を上洛させたり、外国艦を関門海峡で砲撃したりした。
さらに文久3年(1863)8月13日には、「大和行幸の詔(やまとぎょうこうのみことのり)」が発せられる。天皇みずからが大和の春日社(現在の春日大社)や神武天皇陵に参拝し、攘夷(外国撃退)の作戦会議を開くというのだ。もはや幕府の存在は、無視されたも同じだった。
勢いづいた攘夷派は、その先鋒として「天誅組」を旗揚げさせる。首領となったのは、19歳の青年公卿中山忠光(ただみつ)だ。さらに土佐の吉村寅(虎)太郎、備前の藤本鉄石、三河の松本奎堂(けいどう)が三総裁に選ばれた。彼らは総勢30余名を率い、8月15日、幕府天領である大和五條に進む。そして代官所(現在の五條市役所の地)を襲撃して、幕府方の代官の首を斬り、数名の者を血祭りにあげた。さらには住民を脅して代官所に火を放ち、全焼させる。
ところが、8月18日になり京都の事態が急変した。天皇はみずから指揮を執り、外国と戦うつもりはない。あくまで幕府を頼りにしているのに、その真意は外部に伝わらない。そうした天皇の不満が薩摩藩や会津藩に伝わり、政変が起こったのだ。長州藩など過激な攘夷派は失脚し、京都から追放されてしまった。もちろん大和行幸も延期となり、天皇は政変の正当性を認め、天誅組を討つよう命じた。
ハシゴを外され、孤立無援となってしまった天誅組は協議のすえ、十津川(とつかわ)方面に退却する。そして徹底抗戦の姿勢を貫こうとしたが、高取城(たかとりじょう)奪還に失敗し、吉野山中をさまよいながら北上を続ける羽目に陥った。
天誅組は吉野郡川上村武木を経て、東熊野街道の足郷峠越(あしのさととうげ)、白屋越、東の川越で東吉野村の鷲家口(わしかぐち)に出て来る。9月24日夕暮れ過ぎのことだ。ここから摂津・河内方面へ逃れようと考えたようである。
ところが鷲家口とその先の鷲家には、天誅組追討を命じられた紀州・津・彦根各藩が、陣を構え待っていた。天誅組は、覚悟を決めねばならなかった。まず、土佐の那須信吾を隊長とする決死隊六名が出店坂を下りて彦根藩の陣営に突撃し、全員が戦死した。
その隙に首領の中山忠光は高見川の支流・鷲家川に沿い、血路を求めて突き進む。従う者は17名になっていた。激しい攻防戦が続き、結局この地を脱出できたのは忠光ら数名だけだった。三総裁もここで戦死し、天誅組は壊滅したのである。忠光は同志の国であるはずの長州に逃れたが、藩論が一変し暗殺されてしまう。「明治」と改元されるまでには、まだ5年の時間が必要だった。
鷲家口から鷲家に至る山深い里は、いまも幕末のころと地形も町並みも、ほとんど変わっていないと思われる。10キロ余りの山間部の道沿いには、いたるところに石碑が立ち、数々の若者の死を風化させまいとしているかのようだ。ヒーローの時代として、美化されがちな「幕末」。しかし現実は多くの屍(しかばね)が累々と積み重ねられていった、血みどろの歴史だったことをあらためて教えてくれる貴重な土地だ。それを助けてくれるのは、たとえば那須信吾が戦死した場所の、次のような説明板である。
「天誅組遺跡 文久3年旧9月24日宵、天誅組前勢の隊長那須信吾は碇屋前の彦根陣所を突破して四条屋儀兵宅まで進み彦根勢の部将大館孫左衛門の手練(てだれ)の槍で討取るや直ぐに踵(きびす)をかえして又碇屋前の敵弾に肉迫した。此の時碇屋の表格子の間から彦根藩士佐藤長三郎の銃が火を吹いた。信吾は之(これ)に槍を投げつけるなり大刀を抜いて迫ったが続く二弾三弾に信吾は満身血達磨となり此の附近で無念の最後を遂げた」(原文のまま)
凄惨な光景が目に浮かぶかのような、史跡説明としては他に類を見ないほどの生々しい描写だ。こうした説明板が、いたる所に見られる。すべて読みながら歩くと、幕末のたくさんの若者の死に立ち会ったような、なんとも言えない気分になる。
「辛抱せよ、辛抱せよ。辛抱を押したら世は代わる。それを楽しみにしろ」
負傷して駕籠(かご)に乗る吉村寅太郎は、周囲の者にそのようにつぶやいたという。武市半平太、坂本龍馬らと土佐勤王党を結成し、日本の変革を誓い合った男。薪小屋に潜んでいたところを、津藩の兵に見つかり「残念」のひと言を残し銃殺された。享年27だった。
吉村の墓は鷲家口の道路脇から少し山中に入ったところに、他の同志の墓と共にある。戦いが終わると村人たちは、「天誅吉村大神儀」としてその墓を崇めたと伝えられる。150年前の「辛抱せよ」という吉村のつぶやきは、いまなお多くの人の胸に、痛々しい共感として響かずにはいられない。

※この紀行文は2009年11月取材時に執筆したものです。諸般の事情で現在とはルート、スポットの様子が異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。

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