各界の識者が語る「わたしの記紀・万葉」

第15回 子どもの本研究所 竹中淑子氏 & 根岸貴子氏

神話の持つエネルギーを失わずに、
『古事記』の世界を丸ごと子どもたちに伝える

竹中淑子氏 & 根岸貴子氏

児童図書館員としての願い~子どものための『古事記』

「はじめての古事記 日本の神話」を作られた背景には、長年にわたる子どものための本に寄せた思いがあったと伺っていますが、それは何だったのでしょうか。
根岸 私たちは、1994年に「こどもの本研究所」をつくりましたが、その前は二人とも20年ほど東京子ども図書館という私立の小さな児童図書館で子どもへの図書館サービスと児童サービスをしてきました。それと同時に、大人に向けて児童サービスの重要性を伝える啓蒙的な活動もしていました。
私たちが向き合う子どもたちは、まだ本の面白さも、図書館とは何かということも知りません。私たちはそれを理解してもらうために、子どもたちに本の読み聞かせをしていました。その中で、子どもが一番好きなのは古くから語り継がれてきた伝承文学です。伝承文学には神話、伝説、昔話がありますが、神話は国や民族に伝わる創世の神々の物語、伝説は特定の場所で起きたと信じられて語り継がれてきたお話、昔話は「昔、昔あるところに~」で始まる、時と場所を限定しない空想的要素が強いお話です。この「昔話」は幅広い年齢の子どもを惹きつけるので、私たちもよく読み聞かせをしました。
それに対して、日本の神話はほとんど読んだことがありません。『古事記』も伝承文学ですが、年齢の低い子どもに読み聞かせられる『古事記』がありませんでした。そのため、私たちは「子どもたちに読んであげられる『古事記』があればいいのに」と思っていました。
そのような思いの中で、私たちは子どもの本や子どもへの図書館サービスについて研究し、現場に役立つ形で返したいと考えるに至り、「子どもの本研究所」を設立しました。そして、開設当初、国文学者の内田保廣先生を招いて「日本の古典を知る ― 日本の子どもの本の源とその周辺」という講座を開きました。内田先生ははじめに日本の神話を取り上げられましたが、その中で、受講生から「日本の神話を現代の子どもに伝える良いテキストがない」という私たちの思いと同じ意見が出されました。それに対して内田先生は「国 文学の専門家が神話を再話すると、国文学の枠に捉われてしまい、子どもにとって面白い話ではなくなってしまう。違う視点から、子どもに日本の神話を差し出すものがあるといい」と言われました。それまで、私たちは自分たちが欲しいと思っていたものは国文学の先生方が作るものだと思っていたのですが、全く違う視点から作ってもいいと言われたわけです。そこで、私たちは自分たちで作ってみようと思い立ちました。それが10数年前のことです。

苦闘の中で出会った岡野弘彦氏の『古事記』全講会

「はじめての古事記~」は読み語りという視点でつくられたと伺っていますが。
竹中 まず、私たちなりの『古事記』をどのように再話するかということを考えなければなりませんでしたが、そのためには、まずきちんと読んでみようということになり、一人が原文を声に出して読み、もう一人が聞くという作業を交互に行いました。この方法をとったのは、子どもの本は声に出して口に乗らなければ読めないからです。それから現代語訳で解釈をしましたが、これが大変でした。『古事記』の話は全く筋が通らないのです。
根岸 今ある児童図書の神話はすでにある物語から少しずつ摘まんで子ども向けにしたものが多いので、理不尽な話ばかりです。例えば、建速須佐之男命は伊耶那岐命のみそぎで生まれたので父親しかいないのに、なぜ母の国へ行きたがるのか、大国主神が苦労してつくった葦原中国をなぜ譲らなければならないのか、すべて納得がいきません。
そもそも、私たちの本づくりは、小学校低学年・中学年を対象として、『海幸山幸』までの神話を取り上げようと考えており、その上で、古代の日本人が持っていた神様のイメージが伝わるように、また、神話の持つエネルギーを失わないようにしながら、耳で聞いてわかりやすい文章にしようという目標を立てていましたが、何よりも『古事記』の世界を子ども心に感じてもらえるような再話をしたいという強い思いがありました。そのような目標を掲げて再話を始めたのですが、話の筋が通らないために万策尽きてしまいました。
そういう時に、私たちは「折口信夫の最後の弟子」と言われる岡野弘彦先生の『古事記』の全講会に出会ったのです。
竹中 それは、10年ほど前、婦人之友社の羽仁もと子さんが創立された自由学園にある国の重要文化財『明日館』が動態保存となった際に企画された公開講座の一つで、私たちも子どもの本関係の講座を行っていましたが、同じ公開講座で岡野弘彦先生の『古事記』の全講会があることを知り、是非お聴きしたいと思って受講しました。
根岸 岡野先生は歌人ですので、講座では歌を朗々と詠われ、話を解釈するよりも古代人の心をそのまま伝えようとされていました。そして、その講義の冒頭で、私たちが最も衝撃を受けたのが「『古事記』を理屈で考えようとしてはいけない」という言葉でした。自分たちもそういう思いを持っていましたが、いつの間にかそれを忘れてしまい、『古事記』の世界を丸ごと受け入れていなかったことに気づきました。目から鱗が落ちた思いでした。
それで、岡野先生の「古代日本人の心に沿って『古事記』を読み解かなければならない」という言葉を受けて、もう一度読み直すことにしました。そして、しだいに、日本の神話は神様と人間と自然の境界線が曖昧模糊としたものであり、その境界線を明確にするような再話はもはや『古事記』ではないということが分かってきました。また、先生が読まれる『古事記』は本当に美しい調べなので、再話も読みやすく、聞きやすく、調べに乗りやすいものにしなければならないと実感しました。そこを目指さなければ、私たちが「欲しい」と思っていた『古事記』にはならないのです。このように、岡野先生のお話を伺ったことが、『はじめての古事記』ができる大きな動機になったと言えます。

神話のエネルギーを子どもたちに伝えたい

根岸 再話の作業は、原文を声に出して読み、内容、雰囲気等を二人で確認しながら、一行ずつ子どもが分かる言葉にしていきました。それを積み重ねて、ある程度までできたら始めから読んで、つながりが悪ければ直します。それを繰り返しながら、一章ずつ完成させていきました。これは非常に手間のかかる仕事で、結局、『古事記』の世界を創り上げるのに10年ほどを要しました。その頃偶然、徳間書店で「神話のシリーズを出したい」という話がありましたので、この本を提案して出版に至ったわけです。
竹中 一番難しかったのは、例えば、『海幸山幸』で非のある弟の方が王になるという理不尽さに対して、話の筋を通すために兄に意地悪い性格付けをしている本がありましたが、それは神話としてはおかしいので、できるだけ精神的な部分や世界観はオリジナルを崩さず、なおかつお話として納得がいくように苦心しなければならないという点でした。
根岸 「納得がいく」というのは、理屈の上で辻褄を合わせることでありません。そのお話が本当に面白ければ、子どもは最後にそれなりの納得をします。変に辻褄を合わせて、本を道徳教育等に利用しようすると、子どもの可能性を切り捨ててしまう恐れがあります。そうではなく、神話にある大らかなエネルギーを子どもたちが受け取って、日本独特の文化に自ら目を向けてくれるようにすることが大事なのです。『古事記』から逸脱せず、なおかつ面白いお話を子ども時代に読んだり、聞いたりすると、大人になって『古事記』をより深く探求したり、日本文化に興味を持ったりするのではないかと私たちは考えています。
竹中 多くの人が、学校現場での読書教育と図書館での自由な読書の違いを理解せずに、読書に「子どもに何かを教えるためもの」という意義を求めます。しかし、本来、子どもの読書は一人一人が人間として育っていく基盤づくりの栄養となるものです。「面白かった」「楽しかった」「驚いた」という感情を受け止めることが大切であり、そういう体験を読書によって得てほしいと考えています。ですから、私たちは子どもたちに「たくさん読まなくてもいい」と言っています。量だけで子どもの読書は図れません。「量より質」なのです。
根岸 もう一つ大切なのは、この本が図書館の書棚にあることです。図書館に行って「はじめての古事記」を探すと、同時に神話の棚に並ぶ各国の神話や伝説を目にするので、世界にはたくさんの神話があることを知ります。それだけでも子どもの目は開かれます。
また、子どもが本を選ぶ時は見かけが大事なので装丁も重要です。この本もスズキコージ氏のエネルギッシュな絵が付いてインパクトを与えるものになったと思っています。
竹中 最初の神様のところは抽象的・観念的なので思い切って外しましたが、古代の人たちの日本の神様に対す るイメージを損なわないよう、第1章は特に苦労しました。その分、良い薄さになりましたので、子どもにはこのくらいがちょうどいいと思います。
『古事記』に関しては、これで完結ですか。
竹中 倭建命以降の話は、歴史や政治的なことが絡んできて、対象とする小学校低学年・中学年の子どもたちには難しいので、私たちはこの本を『古事記』の中の神話に限定しました。その上で、高学年から中学生に適正な本をあとがきで紹介しています。
根岸 小さな神社一つでもゆかりの地があれば嬉しいに違いありませんが、奈良県にはそういう場所がたくさん あります。
このプロジェクトは今後も続くわけですし、相手が子どもであれば、とにかく身近なところから始めるべきなので、まずは地域の子どもに愛着を持たせることが大切だと思います。
本日は、お忙しいところを、ありがとうございました。
たけなか・よしこ
プロフィール
東京都出身。慶應義塾大学文学部哲学科(美術史学専攻)卒業。北海道武蔵女子大学非常勤講師(1992~1999)。白百合女子大学非常勤講師(2007~2012)。中央大学兼任講師1995~現在)。子どもの本研究所(1994~現在)。

ねぎし・たかこ
プロフィール
東京都出身。慶應義塾大学文学部図書館学科卒業。産能短期大学(現自由が丘産能短期大学)非常勤講師(1998~2011)。杏林大学非常勤講師(1999~2008)。子どもの本研究所(1994~現在)。