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菅谷先生が「記紀・万葉集」を初めて意識されたのは、いつ頃でしたか? |
菅谷 |
少なくとも記紀について、その名前を意識したのは、たぶん5歳ぐらいです。 |
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そんなにお小さいころですか? |
菅谷 |
私の父方の家系が、奈良県吉野の国栖(くず)というところの出身。
しかも、国栖(くず)族の子孫で国栖(くず)の翁、翁筋の家系です。
明治維新で没落して、今は誰も国栖(くず)に住んでいないんですけれど、物心ついたときから、父親に、それは『日本書紀』と『古事記』にある話なんだとしょっちゅう聞かされていました。
当時は大宇陀から国栖(くず)まで歩いていました。
父親に連れられ、お寺(白鳳山竜泉寺)へ行ったりする時、その道々でもよく聞かされました。
寝物語ならぬ歩き物語です。
天武天皇の壬申の乱の話も父親からよく聞きましたね。
そのとき、わが家の先祖さんたちの国栖(くず)族一族で、天武天皇をお守りしたんやそうです。 |
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お父様にとっては大変な誇り、自慢だったのでしょうね。
そのあと、記紀というものを文献として読まれたのは? |
菅谷 |
それは大学へ行った時、私が古代史を習った横田健一先生の講義で、もう「いらんほど」(いらないほど)読まされまして(笑)。
当時横田先生は『日本書紀』の中の、主語の漢字表記とか、文法上の助詞、措辞などの、それぞれの用字用語が、1巻から30巻までどういうように使われているかという研究をされておられました。
その結果、『日本書紀』は、筆者グループが7つほどに分かれると考えられるという研究をされ、論文を次々発表されました。
私が大学に通った昭和30年代の後半からは出版事情も良くなりつつあって、『日本書紀』にでてくる建国神話、日本の神話をどう理解するかというのが、研究段階から社会段階に入りかけたところぐらいだったんです。
確か講談社が、日本の歴史シリーズを発行したり、それに遅れて岩波書店が日本歴史シリーズを発行したりしていました。
だから私は、ちょうど研究者としての道を進もうか進むまいかというときに、『古事記』ではなく『日本書紀』シャワーを浴びた格好でした。
まだブームにはなる前の段階です。
今だと、記紀の研究は国文の人が多くやります。
史学科の中年の先生で、記紀だけが専門という人は日本中探してもいないと思うんです。 |
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史実ではなく、物語として扱うということですね。 |
菅谷 |
でも、昭和30・40年代には、日本中の古代史の先生が『日本書紀』をやっていましたからね。
あたりまえだった。
横田先生はその最前線を走っておられました。 |
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『古事記』に関する講義も当然あったわけですか? |
菅谷 |
そうです。『古事記』は末永雅雄先生から習いました。
「お前ら『日本書紀』ばっかり読んでいるけど、『古事記』も読んで、御陵の名前とかをもう少し研究したらどうか」とおっしゃっていた。
確か、先生からの課題で『日本書紀』と『古事記』に載っている陵墓関係の記事を全部書き写したことがありました。
当時はコピー機がなくてね(笑)。
おかげで、このときに初めて『古事記』を一生懸命読んだ記憶があります。 |
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その時、先生がずっと、お父様から聞かれた話を、文字として改めて読まれた。 |
菅谷 |
国栖(くず)はいっぱい出てきますからね。
でも、自分の家のいわゆる家伝と、科学としての歴史学とは全然身体の中で分かれていますから、特に感慨にふけるとか、懐かしいという感じはなかったですね。
別だからといって、大事にしていないわけではなく、今も国栖(くず)族のことは、本業の合間をみてよく調べてますよ。
平安時代の貴族の日記を読んで、国栖(くず)族の記述を探すんです。
例えば、1月2日の日には国栖(くず)族が宮中で舞をしています。
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今も奈良県で残っている、国栖奏(くずそう)ですね。
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菅谷 |
それがいつ頃まであって、いつ頃途絶えたかというのを、あ、今年もしていない、次の年も…などと。
これは、僕にとっては、まさに個人のホビーの世界ですよね。
研究の世界とホビーの世界とは全く違うんじゃないかと思います。
だから、おまえは歴史学者なのに、家伝を証明できるのか?といわれても、「できません」と言う以外ない(笑)。
ただ、僕が家伝として聞いていたようなことが、無意識のうちに、僕に考古学徒という道を選ばせたし、もっといえば、そういう寝物語のような物語がいくつも合わさって、ひとつの歴史が出来上がっていくという可能性はあると思います。
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