記紀・万葉講座

壬申の乱-その経路と後世への影響

日本書紀を語る講演会 第2回 田原本町

2015年12月5日(土)13時00分~14時30分
会場・田原本町町民ホール
講師・奈良県立図書情報館 館長 千田 稔(せんだみのる)氏
演題・壬申の乱-その経路と後世への影響

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講演の内容

『日本書紀』は、歴史、古代史の勉強をするために色々と役に立つことがたくさんあるが、読んでいて一番ドラマチックで、物語風であるのは、「壬申の乱」である。「壬申の乱」の戦いのひとつになった場所に、本日の講演会の地、田原本町があり、村屋神社などが、「壬申の乱」のひとつの見せ所になった場所であった。


「壬申の乱」は大津宮の天智天皇の後継をめぐって、天智天皇の皇子である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子との間でおこった天皇家の戦乱である。天智天皇の後継者として、大海人皇子と大友皇子がいたが、天智天皇は、大友皇子を次の天皇に擁立しようと動き出し、それを知った大海人皇子は、出家するという理由で吉野へ向かった。しかし、天智天皇がお亡くなりになると、吉野から撃って出て、大海人皇子側の軍勢は、神のお告げの力も借りて勢力を強め、大和、伊賀、美濃、そして近江と転戦し、大友皇子を自害に追い込み、その後大海人皇子は、天武天皇として即位した。


この経路は、奈良時代の聖武天皇が平城京を廃都とする意図のもとに、東国に行幸して、恭仁京に遷都するために辿った経路と似ている。このルートを天武天皇の顕彰と見る説があるが、それにとどまるのではない。これは、天武天皇のようにかつて天皇が実権を握っていた時代にもう一度戻りたい、という聖武天皇の願い、つまり藤原氏の権勢に押された天皇家が勢力をとりもどすために、天武天皇を顕彰した象徴的行動であった。よって、ふたつ経路の地図はほぼ似ていると考えられる。これは、元正天皇の美濃行幸にも読み取ることができ、さらには、天照大神の鎮座地を求めてさすらう倭姫伝承にも見られる。


同じ意味をもった行幸には、天武天皇崩御の後の持統天皇、文武天皇らの吉野行幸にもあげることができる。
よって、「天照大神」の鎮座伝承や奈良時代の聖武天皇の東国行幸は天武天皇の「壬申の乱」と密接な関係を持っていたと考えることができる。


 

 


【講師プロフィール】
千田 稔(せんだ・みのる)/奈良県立図書情報館 館長
1942年、奈良県生まれ。京都大学大学院文学研究科(地理学専攻)修士課程修了。同博士課程を経て、追手門学院大学講師、奈良女子大学教授、国際日本文化研究センター教授を歴任。
帝塚山大学特別客員教授、国際日本文化研究センター名誉教授、文学博士。監修の『古事記(別冊太陽 日本のこころ194)』(平凡社)は、奈良県主催の「平成24年度古事記出版大賞」を受賞。著書に『古代日本の歴史地理学研究』、『古事記の宇宙』、『古 事記の大和路』など多数。

●関連情報
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