記紀・万葉講座

奈良まほろば館・聖徳太子没後1400年
『太子ゆかりの舞楽上演と地域講演』

日時 : 令和4年1月15日(土曜日)・1月16日(日曜日)
会場 : 奈良まほろば館2階イベントホールA
東京都港区新橋1-8-4 SMBC新橋ビル1F・2F

我が国黎明のとき、政治、外交、宗教、思想、道徳等幅広い分野の礎を築き、その後の時代に多くの影響を与えた聖徳太子。信仰の対象にもなり、数々の逸話が語り継がれるとともに、文化や芸術の分野においても多くの事績を残しています。 奈良県では、聖徳太子没後1400年の節目にあたり太子ゆかりの市町村とともに「聖徳太子プロジェクト」を展開。太子が愛した芸能を交えた催しを各地で行ってきました。2022年1月15日(土曜日)と16日(日)に、東京都港区の「奈良まほろば館」にて新年を雅やかに彩るイベントを開催。前半は、奈良県内の聖徳太子ゆかりの地である王寺町と斑鳩町から講師を招いての『地域講演』。後半は、天理大学雅楽部・おやさと雅楽会による『蘇莫者(そまくしゃ)』を上演しました。

地域講演(1)(1月15日)

『達磨寺に息づく聖徳太子』

王寺町地域交流課文化資源活用係長
文化財学芸員 岡島永昌 氏 

達磨寺と聖徳太子

聖徳太子と言えば、法隆寺。法隆寺のある斑鳩町の南隣にあるのが王寺町です。王寺町には臨済宗南禅寺派の達磨寺というお寺があります。その名の通り、インドから中国に渡って禅宗を広めた達磨大師と深く関わっています。境内には達磨寺古墳群と呼んでいる円墳が3基あり、そのうちの達磨寺3号墳が達磨さんの墓だと考えられるようになり、その上に建っているのが達磨寺です。では、何故、達磨の墓の上に建っているのか。その由緒となるのが『日本書紀』に出てくる「片岡飢人(きじん)伝説」または「片岡尸解仙(しかいせん)説話」と呼ばれる物語です。613年に聖徳太子が片岡を通ると飢えた人がそこに倒れていた。聖徳太子は食べ物や衣を与えて助けようとしますが、その人は亡くなります。太子は大いに悲しみ、埋葬してお墓をつくってあげます。「あの飢えた人は聖人に違いない」と太子が使いの者にお墓を確認に行かせると、遺体が消えて太子が与えた衣だけが棺の上にあった。このことから、やはり聖徳太子というのは聖人を見破るくらいすごい人なのだと伝えているのが「片岡尸解仙説話」です。その後、太子信仰が高まり、実は飢えた人というのは達磨大師だったんだとなり、そのお墓が、太子葬送の道のそばにある達磨寺3号墳だとなる。そうして、達磨さんのお墓の信仰が生まれ、鎌倉時代の初めに達磨の墓の上に塔を建ててお寺が開基されました。このように聖徳太子と達磨大師の物語をもとにして出来ていったのが達磨寺なんです。ですから今も、達磨寺の本尊としてこの聖徳太子像と達磨大師像がお祀りされているのです。

聖徳太子と雪丸

王寺町のマスコットキャラクター「雪丸」。町には可愛らしい雪丸グッズが溢れ、JR王寺駅から雪丸の足跡を辿っていくと達磨寺に行き着くという工夫になっています。達磨寺には石造りの雪丸像が安置されています。『達磨寺略記』という古記録によると、雪丸は聖徳太子が飼っていた犬で人の言葉を理解し、お経を読み、さらには「自分が死んだら必ず本堂の下にある達磨墳の丑寅に埋めよ」と言って死んだとあります。達磨寺3号墳の丑寅=北東には達磨寺1号墳がありますが、どうやらこれが犬塚、雪丸の墓だと考えられたようです。 1791年出版の『大和名所図会』には達磨寺の雪丸像が描かれています。1826年の『道中日記』では旅人が「この処(達磨寺)に太子愛する雪丸という犬の石あり」と書いています。しかも、この犬は元日に吠えると。今でも地元では元日に雪丸像がワンと吠えるとその年は豊作になると伝承されています。 また、『大和名所図会』には大和郡山に聖徳太子が愛した「白雪丸」の墓があると書かれています。調べると『太子伝撰集抄別要』(1607年)に聖徳太子の宮に白雪丸というご秘蔵の犬がいて、エサを役人に盗まれたと自ら太子に訴えたという話がありました。この白雪丸も人の言葉を理解しています。鎌倉時代後期、聖徳太子信仰が高まり、絵伝とその絵解きの台本としての太子伝というものが多く著されました。その頃から白雪丸の話が登場することになります。一方、雪丸は太子伝には登場しません。おそらく達磨寺の雪丸というのは、白雪丸の話をベースに達磨大師の伝承をミックスさせて生まれてきたものだろうと。少なくても江戸時代には雪丸の伝承は成立していたと思います。皆さん、是非達磨寺にお越しください。

画像 地域講演(2)(1月16日)

『斑鳩における聖徳太子の足跡 ~考古学の調査成果を中心に~』

斑鳩町教育委員会事務局生涯学習課参事
斑鳩文化財センター 平田政彦 氏 

若草伽藍と呼ばれる寺院遺跡

みなさんはご存知かと思いますが、聖徳太子の建てた法隆寺は670年に一度焼失した後に再建されたもので、つまり、聖徳太子は今の法隆寺を見ていません。現在の法隆寺の南東方向にある若草伽藍が、聖徳太子が建てた法隆寺の寺院跡です。塔の心柱を支えていた塔心礎があり、これは法隆寺の夏季大学の初日にだけ一般公開されます。 明治時代から100年以上続いる“法隆寺は再建されたものかされていないか”といった法隆寺再建・非再建論争。この論争における一番の弱みは、焼けた遺物が見つかっていないことでした。江戸時代に記された法隆寺の『古今一陽集』には、若草に大きな石があるということが報告されていて、昭和14年に石田茂作先生等によってこの若草のあたりが発掘されました。そして、掘り込み地業といって古代の寺院を造る時の地盤改良工事をしていることを見つけ、ここが寺院遺跡で、塔と金堂が南北方向で並んでいる四天王寺式伽藍配置の立派なお寺だったこともわかりました。

出土した焼けた瓦が教えてくれたこと

考古学で瓦の研究をする時には、必ず法隆寺の瓦を勉強します。時代を理解するのに最適な考古資料なのです。若草伽藍跡から出土した瓦からは、山背大兄王が創建法隆寺の造営をお父さんの聖徳太子から引き継いだことがわかります。朝鮮半島伝来の素弁九弁蓮華文軒丸瓦や手彫り忍冬唐草文を刻んだ我が国最初の軒平瓦。聖徳太子はこれらを採用しますが、山背大兄王はこれをさらに発展させた複雑な文様や手法を採用した軒瓦を使用しています。では、焼けている瓦が出土したからと言って、法隆寺が焼けたという証拠になるかというと、瓦はもともと土を窯で焼きますので、焼けているのが当然です。それらが、さらに火災で焼けたのかを証明するのは結構難しいのですが、軒丸瓦の瓦当という文様がある部分と丸瓦をくっつけた箇所が私に教えてくれました。つまり、瓦当と丸瓦の接合部は窯で焼いている時に火が直接あたらないので、表面が赤色や橙色になっていても内部は温度が上がりきらないので、こげ茶色や黒くなったりしているのです。ですが、この軒丸瓦のくっついているところが文様のある橙色とまったく同じの発色をしていたのです。これは、法隆寺が火災に遭って、塔がまさに瓦解する際に丸瓦と瓦当の接合部が取れて、同じように火にあたってしまった結果で、同じ色に発色しているということが、火災で焼けたことを証明したのです。   

平成16(2004)年度の発掘調査成果

平成16年度に法隆寺の南大門の近くを掘りました。「この辺には法隆寺を解明するすごいものが埋まっている可能性がある」と。予想通り焼けた壁土や瓦が出土し、3cm足らずの壁画片も見つかりました。分析をすると白土、黄土に青や緑の銅を主成分とした顔料が塗られていました。題材は、中宮寺に伝わる「天寿国繍帳」に描かれている蓮の華の形や色と重なります。他にも仏様の台座の蓮弁の先を見つけたようです。聖徳太子が活躍された頃の中国(隋)の仏様の台座の部分によく似ています。おそらく、聖徳太子の建てた法隆寺にも石仏があったのでしょう。

法輪寺と法起寺

法輪寺と法起寺は、山背大兄王が建てた僧の寺と尼の寺ではないかなと考えています。法輪寺には、7世紀前半期に山背大兄王と由義王が建てたという説と、7世紀後半に百済聞師や圓(えん)明(みょう)師、下氷(したひ)居(いの)雑物(ぞうぶつ)等が建立したという説があります。この疑問については、発掘調査で答えが出ました。つまり、前説に合う7世紀前半期の素弁八弁蓮華文様の軒丸瓦が塔基壇の中から出土し、後説に合う7世紀後半期の複弁八弁蓮華文様の軒丸瓦が塔や金堂の周辺から多く出土したのです。法起寺については、『聖徳太子伝私記』に山本宮(岡本宮)を寺にしたという記事が出てきます。発掘調査をしていくと、法起寺の下層遺構である石溝や建物跡が見つかり、古い軒丸瓦も出土しますので、岡本宮の宮内に仏堂があり、太子の死後に法起寺を造ったのではないかと考えられます。

画像 舞楽上演『蘇莫者』(1月15日・16日)

イベントの後半は、天理大学雅楽部・おやさと雅楽会によって、聖徳太子ゆかりの舞楽 「蘇莫者」が上演された。 この演目は、聖徳太子が亀の瀬を越えるときに吹いた笛の音色に信貴山の神が感応し、 猿の姿で舞ったという逸話を表現したもの。(役行者と山の神による舞とする別説もあり)。 天理大学雅楽部総監督・佐藤浩司氏による解説とともに、唐冠に鮮橙色の装束を身に まとった聖徳太子役が登場。笛を吹くと、ペロリと舌を出した猿の面をつけた舞人が現れ、 2拍+3拍のやたら拍子に合わせて雅びでありながらもユーモラスな舞を披露。 まほろば館に集った観客を古代へといざないました。

画像