「古事記が書かなかった海外交流」
古事記を語る講演会 第3回 橿原市
2013年12月23日 13時30分~15時00分
会場・奈良県立橿原考古学研究所 講堂
講師・奈良県立橿原考古学研究所 所長 菅谷 文則氏
演題・「古事記が書かなかった海外交流」
パンフレットにリンク
講演の内容
古事記に登場する神武天皇は、紀元前660年に即位したと言われている。古事記の内容は親から子へ、子から孫へ、孫からひ孫へと伝わったと言われているが、編纂されたのが712年であるから、1300年前の話を稗田阿礼は覚えていて、それを太安万侶が文章化したことになる。しかし、邪馬台国や倭の五王については何も書かれていない。一方、日本書紀の中では少し触れられている(倭の五王は記載なし)。日本書紀に三国志が引用されていることから、三国志は720年以前、平城京に都が移った直後には、遅くとも日本に入っていたと考えられる。その三国志は、紙なのか、竹簡や絹布に書かれていたのか不明である。聖徳太子が使わした遣隋使の最大の仕事は、こうした本を写して持って帰ることにあった。
古事記と日本書紀では、両方にある物語、片方にしかない物語がそれぞれ3分の1ずつある。仁徳天皇が飢えに苦しむ民を助けるべく3年間無税にしたという話のように、両方で取り上げられてはいるが、書き方がまったく違う場合もある。また、前方後円墳をはじめ、あれだけエネルギーを費やした古墳に関して古事記には記述がないが、日本書紀には桜井市の箸墓古墳のことが記録されている。ちなみに箸は藤原京の頃から日本にあり、発掘された物品から推察するに、箸墓築造のころは日本に箸はなかった。
古事記や日本書紀に書かれていないこともあれば、海外事情に関して、日本でこれほど騒がしい卑弥呼や倭の五王のことは古事記には書かれておらず、日本書紀には少しだけ書かれている。太安万侶は海外事情に関してすべて知っていたと思うがあえて書かなかったのだと思う。今後、個人的には考古学者として、本職である古事記や日本書紀による器物の研究をすすめ、この神話の話はいつ頃のものが反映されているか、例えば鰹木や弓ならいつごろのものなのかという、神話年輪学(ヨーロッパで盛ん)に積極的に取り組んでいくべきだと思っている。
【講師プロフィール】
菅谷 文則(すがや・ふみのり)/奈良県立橿原考古学研究所 所長
1942年奈良県宇陀市生まれ。奈良県文化財保存課・県立橿原考古学研究所・シルクロード学研究センターなどを歴任。その後、滋賀県立大学教授として、研究を進め中国や東アジアでの発掘調査を徹底して行う。
2009年より奈良県立橿原考古学研究所所長。同年、滋賀県立大学名誉教授。現在は橿原考古学研究所所長をつとめる一方、山岳修験道の先達として大峰山奥駆けも幾度となく経験している。
●関連情報
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