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【五條新町】まち並みをじっくりと歩き 歴史と文化に触れる
奈良県五條市の「五條新町」は、平成22年12月より、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。同地域内の160戸がその対象として選定され、さらにそのうち95の建物は、東西に一直線・約700メートルにわたる「新町通り」に面している。
この「新町通り」が誕生したのは、今から約400年前の江戸時代のころ。大和二見藩の藩主であった松倉重政によって、二見城の城下町として造成された。
イメージ:【五條新町】まち並みをじっくりと歩き 歴史と文化に触れる
当時の城下町といえば、戦に備え複雑に入り組んだ区画整理をするのが一般的。しかしここ「五條新町」は、旧紀州街道に沿った一直線のまちづくりが行われており、当時としてはとても珍しいものだった。
まちに残る伝統的な建造物は、江戸時代から昭和戦前まで、およそ300年のうちに建てられている。それぞれの建造物をゆっくりと眺めながら歩けば、その端々に時代の流れを読み取ることができるだろう。このまちが持つ歴史や文化を想像しつつ、「新町通り」をじっくりと歩いてみてほしい。
風情ある佇まいの「山田旅館」。江戸後期に建てられてもので、昔は筏宿として賑わった。
新町通りの西の端から東に向かって数十メートル進むと、右手に「山田旅館」がある。この旅館の建物は、江戸時代後期のもの。五條と二見の間にあることから、当時は「五二館」と呼ばれ、建物を東側から見ると、その看板が今も掲げられている。明治40年頃より「山田旅館」となり、五條新町が今よりもずっと活気に溢れていた50~60年ほど前は、材木商や筏師(いかだし)が頻繁に利用していたという。
新町通りの南側に流れる吉野川は、かつてこのまちの商業や流通に欠かせない存在だった。水量は今の4倍ほどもあり、売買される木材が運ばれていた。木材の運搬に吉野川が使われていた当時、この旅館に筏師の宿泊があると、軒下には川の水に濡れたわらじが大量に干されていたという。二階では、材木の商談が行われ、商談が成立すると芸者が呼ばれて宴会がはじまった。「山田旅館」は、五條新町でもとくにたくさんの芸者が呼ばれていた旅館だったという。
「五二館」と書かれた看板は、明治時代のもの。
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「山田旅館」の東隣りは「西方寺」。真言宗の寺で、本堂の横には五條新町を興した松倉重政の頌徳碑(しょうとくひ)が建てられている。
松倉重政は、関ヶ原の合戦での功績が認められ、一万石の大名として慶長13年(1608年)に二見城に入城した。そして五條新町をつくったのだが、その際、まちに商人が集まりやすいようにと、「諸役免許」の政策をとった。つまり、税金を免除する特権を与えることで、まちに集まった商人が定住するように図ったのだ。この政策は見事に成功し、その後の五條新町の発展の礎となった。
五条藩の藩主・松倉重政にゆかりのある「西方寺」。
松倉重政を称える頌徳碑。
松倉重政はその後、島原藩(長崎県)へと移り領民に対して非常に厳しい政治を行った。それが後の島原の乱につながったことは有名である。しかしここ五條では、五條新町が大きく発展する基盤を作った名君として、地域一帯の人々に崇められていたのだ。
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引き続き新町通りを東へ進むと、コンクリート製の高架の下に通りかかる。この橋は、「五新鉄道跡」だ。明治時代に五條と和歌山県新宮市とを結ぶ鉄道として計画され、昭和12年に着工されたが、太平洋戦争が始まったことなどを理由に工事は中断された。線路が敷かれたことはなく、現在も残る橋げたやトンネルなどの一部は、路線バス専用道や「大阪大学コスモ観測所」として利用されている。
「五新鉄道跡」。工事が途中で中断となり、線路が敷かれることはなかった。
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歩く際の楽しみ方
歩く際の楽しみ方
「五條新町」にある伝統的な建造物は、江戸時代から昭和の戦前にかけて、さまざまな時代に建てられている。そのため、建物の建設時期によって、特徴もいろいろ。例えば、窓の形がその一つ。江戸時代に建てられた町家は、鉄格子窓や虫籠窓が主流で、明治から大正時代の建物には格子窓や開戸を構えたものも。窓の形に注目して歩けば、「五條新町」の散策がさらに楽しくなる!
>> もっと知りたい!「五條新町を歩く際の楽しみ方」
- 五條新町情報 -
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新町通りまで:JR和歌山線「大和二見駅」または「五条駅」下車、徒歩10分
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0747-22-4001(五條市企業観光戦略課)