倭(やまと)は国のまほろばたたなづく青垣山籠れる倭しうるわしそう詠ったヤマトタケルの時代以来、奈良盆地は日本の中心だった。北は京都、西は大阪、東は伊勢、南は和歌山。いずれにも通じる交通の要地でもある。都が京都にうつされた後も南都と呼ばれ、興福寺を中心とする仏教勢力が国を治めてきた。ところが中世が終わりをむかえる戦国時代になると、さしもの仏教勢力もおとろえ始め、筒井、越智、十市(といち)、古市(ふるいち)、箸尾(はしお)の五大豪族が台頭し、それぞれに城を築いて激しい争いを繰り返した。筒井氏は大和郡山市の筒井城を拠点とし、戦国末期には筒井順慶が出て大和の覇者となった。越智氏は大和盆地の南部にある高取城を詰めの城とし、南北朝時代には吉野にこもった南朝方の忠臣として名を馳せた。十市氏の拠点は、天理市柳本町にある龍王山城である。北域と南域を尾根の道でつないだ規模は壮大で、大和の中心部に勢力をはった十市氏の実力のほどをうかがわせる。古市氏は奈良市古市町にある平城(古市城)に拠って市場の支配を続けたし、箸尾氏は北葛城郡広陵町にある環濠集落を城郭化して河内方面にまで勢力をのばした。五大豪族の中で勝ち残ったのは筒井氏だったが、その頃には河内、摂津に勢力をはる松永弾正久秀が信貴山城を拠点として筒井領に侵攻してきた。