斑鳩宮と飛鳥京を結ぶ、聖徳太子の往来道・太子道

文=藤原浩

(ふじわら ひろし)紀行ライター。旅行雑誌やガイドブックなどに多く執筆。近著に『宮沢賢治とサハリン~「銀河鉄道」の彼方へ~』(東洋書店)がある。

今どき珍しくなった「写ルンです」を片手に、修学旅行生たちが次々と伽藍(がらん)に吸い込まれていく。開門間もない朝の法隆寺。おそらくは本日ひとつめの見学地にちがいない、五重塔のなかを覗きこむ彼らの足取りも軽やかだ。何校もの制服が入り乱れ、ガイドさんの声が晩秋の空に響きわたる。「いいですか、百済観音像(くだらかんのん)と玉虫厨子(たまむしのずし)、それだけは絶対に見逃さないでくださいね。そのあと夢殿へ…」。今日、彼らはいくつの寺を回るのだろう。

聖徳太子に愛された斑鳩(いかるが)の地。七世紀初頭に法隆寺を建立し、また隣接して造営された斑鳩宮に自身も起居した。一方で、推古天皇をはじめ主だった豪族たちは飛鳥に暮らしている。斑鳩と飛鳥、直線距離にして20キロほど離れたふたつの都は、のちに「太子道(たいしみち)」と呼ばれる道で結ばれていた。古い一万円札が消えてずいぶんになるが、少なくとも20年以上前に初等教育を受けた人間にとって、聖徳太子は日本史上もっとも偉大な人物だった。日本に仏教を根づかせた最初の人物であり、また冠位十二階や十七条憲法を制定して国家の基礎を築いた古代日本の大政治家であった。太子がまだ少年だったころ、十数人の相談話を同時に聞き分けたという逸話を知らない人はいないにちがいない。そんな聖徳太子が、法隆寺を造営するために足繁く通ったという太子道を歩いてみる。夢殿をあとにし、国道25号線を渡って南へ。国道脇にある小さな古墳は、聖徳太子の愛馬・黒駒(くろこま)が葬られたと伝わる駒塚(こまづか)古墳。その向こうの田んぼの真ん中に見えているのが調子丸(ちょうしまる)古墳。太子に常に付き従い、黒駒の飼育係であった舎人調子麻呂(とねりのちょうしまろ)が葬られている。特に案内板もなく、柵で覆われた駒塚古墳をのぞき込む私の背後を、修学旅行生を乗せたバスが何台も通り過ぎていく。

飽波神社

飽波神社

聖徳太子の死後、子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)は皇位争いの末に蘇我入鹿に襲われて斑鳩宮で自害し、太子の一族は滅ぼされた。その斑鳩宮跡に、太子をしのぶ廟として建てられたのが夢殿である。その近くにあった二つの古墳が、太子ゆかりの愛馬と舎人の墓であるという伝承が生まれても不思議ではないだろう。素人目にも大きく切り崩されたことが分かる両古墳は、太子伝説の光と影を映し出しているようで立ち去りがたい。
奈良盆地のほぼ中央、いくつもの小さな町を貫くように古い家並みがつづいている。安堵町の飽波(あくなみ)神社には、太子が腰掛けたという御幸石が残され、また三宅町の白山(はくさん)神社には、やはり太子の腰掛石が伝わる。「筋違道(すじかいみち)」という別名もあるように、太子道は何度も東に南に筋を変えながら南へ向かい、やがて田原本町で飛鳥川に合流する。古今集の「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬となる」の歌で有名な、あの飛鳥川である。
以後、太子道は飛鳥の橘寺までずっと飛鳥川に沿うことになる。

橘寺(写真手前は黒駒像)

橘寺(写真手前は黒駒像)

もう10数キロは歩いただろうか、次第に足の裏が疼(うず)きはじめる。はやくも傾きつつある日差しのもと、太子もずいぶん大変だっただろうと妙な親近感を覚えつつ、いや待てよと思う。太子は黒駒にまたがっていたのだ、この気持ちはむしろ、黒駒の脇を必死で走っていただろう調子麻呂に近いのではないか。かつて絶対的な唯一の存在であった聖徳太子も、近年は古代史の研究解釈が進み、再検討の波にさらされているという。「聖徳太子はいなかった」あるいは「彼の事跡のほとんどはウソである」といった論もまかり通るようになった。自由闊達な解釈が古代史の魅力であることは否定しない。でも太子が腰掛けた石を見て「そんなものウソだ」と言うことがどれほどナンセンスか、調子麻呂の気持ちにならなければ分かるまい、などと一人でうそぶいてみる。あらゆる伝承もまた、歴史の大切な一コマにちがいないのだから。

飛鳥川に沿って歩くこと2時間半、橿原市街を抜け、ようやく明日香村へ。飛鳥時代の世界を伝えるべく保たれた田園風景には、足の痛みも忘れ心が弾む。甘樫丘(あまかしのおか)を半周し、午後4時20分、ついに目の前に橘寺が現れた。聖徳太子の誕生地として伝わる古刹の拝観最終受付は午後4時半。小走りに駆けつつ橘寺への坂道を登り、山門をくぐると黒駒の像が目に飛び込んできた。夕闇に包まれはじめた飛鳥の空を見渡しながら、いま歩いてきた道筋を思う。斑鳩から飛鳥への20数キロ。古代史上最大のヒーロー、聖徳太子の死と生をつなぐ道。時代は変われど、聖徳太子〝伝説〟は今も、この道に生きている。

※この紀行文は2009年11月取材時に執筆したものです。諸般の事情で現在とはルート、スポットの様子が異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。

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