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  • 文化村クリエイション vol.5  展覧会「伊庭靖子の見かた、描きかた」

    開催期間

    2024年3月5日(火)~3月24日(日)(月曜休館)

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    申込不要無料

     

     文化村クリエイションは、先進的な取り組みを行うアーティストを招聘し、制作・発表を行うと共に、創作の過程を開いていく試みです。vol.5では画家・伊庭靖子さんをお招きし、奈良県内でモチーフを探し、なら歴史芸術文化村のスタジオにて3ヶ月間公開制作を行いました。本展では新作を中心に展示します。
     伊庭さんは自身で撮影した写真を基に、精細な油彩画を描きます。陶器やクッションといった具体的な対象を描きながらも、それらの「質感」が前景化し、鑑賞者の記憶を呼び起こすような作品の制作を試みてきました。モチーフは匿名性が高く日常にありふれたものが選択され、思い入れは意図的に排除されてきました。
     約20年ぶりとなる滞在制作、失敗してもよいから色々試したいと話していた伊庭さん。奈良の地域性もあり、モチーフには遺跡から出土した陶片や古墳の風景、近代建築の室内などが選ばれました。歴史や人の気配あるものが否応なく醸す、情緒や物語性を許容するのか、試行期間となりました。ここでの制作を経て、作品は今後どのように変化していくのでしょうか。作家の現在地をぜひご覧ください。

     

     

    ■公開制作 *終了しました

    伊庭さんが制作するスタジオの様子を公開します。また公開制作に併せて、近年の風景作品を1点展示します。

    日程|2023年12月2日(土)~2024年2月25日(日)の土曜午後・日曜
     土曜日 13:00~17:00
     日曜日 9:00~17:00
     *お休み…12月23日, 24日, 30日, 31日

     

    ■スタジオトーク *終了しました
    その時々に制作で取り組んでいることや考えていることを、伊庭さんにお話しいただきます。

    日程|
    2023年12月3日(日), 12月17日(日), 2024年1月7日(日), 1月21日(日), 2月4日(日), 2月18日(日)
    時間|13:00〜13:30
    定員|5名程度(事前申込不要・当日先着順)

     

    ■展覧会 *終了しました

    公開制作で制作された新作を中心に展示します。

    日程|2024年3月5日(火)〜3月24日(日) *月曜休館
    時間|9:00〜17:00

     

    ■見かたガイド

    公開制作中に配布していたものを掲載しています。
    これまでの伊庭さんの取組みを簡単にまとめました。

    見かたガイド(PDF)

      

    ■プロフィール

    伊庭靖子(いば やすこ)

    1967年京都市生まれ。
    嵯峨美術短期大学版画科専攻科修了。フランス・モンフランカン(ダイムラークライスラーグループアート・スコープ、1999年)、ニューヨーク(文化庁在外研修員、2001-02年)にて滞在制作。
    主な個展に、「まなざしのあわい」(東京都美術館、2019年)、「まばゆさの在処」(神奈川県立近代美術館、2009年)。国立新美術館、府中市美術館、横須賀美術館、平塚市美術館、滋賀県立近代美術館など多数の展覧会に参加。神奈川県立近代美術館、資生堂アートハウス、東京都現代美術館、国立国際美術館、The Cleveland Museum of Art(米国)など、国内外の美術館に作品が所蔵されている。

     

    ■過去作品

     

    過去作品1

    《Untitled 2008-13》 撮影:加藤成文

     

    過去作品2

    《Untitled 2009-02》 撮影:加藤成文

     

    過去作品3

    《Untitled 2018-02》 撮影:木奥惠三

     

    過去作品4

    《Untitled 2023-05》

    ■記録映像
     
     
    ■レビュー
    アーティスト・関川航平氏と伊庭靖子氏による対話を軸として、安河内宏法氏にテキストを執筆いただきました。関川氏には、文化村クリエイションの印刷物デザインを当初より依頼しています。この対話は、フライヤーデザインに向けた打ち合わせ内での会話をさらに深めるため、改めて機会を設けたものです。
     
    取りこぼすことで、「確かまっていく」

     
    安河内宏法(京都芸術センタープログラムディレクター)
     
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     2024年2月下旬、伊庭靖子が滞在制作を行っているスタジオで取り交わされた伊庭と関川航平の会話は、スタジオの壁面にかけられた、そのときには伊庭自身が「どうやって完成させようか、まだ悩んでいる」と語っていた制作中の作品群の状態に呼応するかのように、行きつ戻りつしながら進んでいった。しかし現時点から、ふたりの会話を振り返るのなら、その日のふたりの言葉は、あるひとつの問いをめぐって発せられていたように思われる。その問いとは、「つまるところ伊庭靖子は、画家として何を行っているのか」というものである。
     こうした問いを俎上に乗せることは、奇異に思われるかもしれない。伊庭と言えば、1990年代半ばのデビューから、モティーフこそ変化してきたものの、一貫してモティーフの「質感」を克明に描き出すことを通して、「触れたい」という欲望を鑑賞者に喚起させる作品を制作し続けてきたからである。伊庭自身が嫌悪感を持っている様子で「さんざん、写真のようだと言われてきた」と語るように、その作品は、画家が見ている物や風景を精緻に描き出すものと見なされることが多かったように思われる。伊庭の作品に対するこうした解釈に即して前述の問いを考えるのなら、「伊庭は画家として、まるでカメラになったかのように対象を眺め、精緻に描き出している」と応えることができるだろう。
     しかしながら、こうした応えは妥当なものだろうか。例えば、本カタログに掲載されている、なら歴史芸術文化村に滞在中に制作した作品群は、どれほど世界の客観的な姿を描き出しているだろうか。あるいは、伊庭がかつて手掛けた、陶磁器やクッションをクローズアップし描いた作品はどうか。それらの作品が「精緻な描写」によって描き出されていることは否定しないものの、モティーフを極端にクローズアップし描く作品群を見ていると、画家の意図が対象の客観的な姿を描き出すこととは別のところにあるように思えてくる。
     では改めて、伊庭靖子は、画家として何を行っているだろうか。この文章では、伊庭と関川の間で取り交わされた言葉を辿りながら、この問題を考えてみたい。
     
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    なら歴史芸術文化村で滞在制作を始めた伊庭は、最初に作品のモティーフを探すためのリサーチを行ったという。「私は自分で撮影した写真をもとに絵を描いています。今回はせっかく奈良に来たので、奈良らしい風景を撮影しようと古墳に出かけたのですが、あまり良い風景に出会うことができませんでした。結局、古墳に行くまでの参道や人の家の庭などを撮影しました。風景であれば何でも良いわけではなく、風景の中に、例えば木々が作るリズムであったり、雲の配置が形づくるリズムであったりが見えてくることがあります。私がモティーフに選ぶ風景は、そうしたリズムを備えています」
     こうした伊庭の言葉を受けて、関川は「その話を聞いて、伊庭さんの目は、果たして何の目なのだろう、と思いました」と反応する。「例えば水彩をやっている人であれば、     細やかな陰影に意識が向くだろうし、ペン画をやる人だったら、ある物の輪郭線を拾っていくように眺めると思います。つまり、風景にリズムを感じるときに、葉っぱ1枚1枚が形づくるリズムを見て取ることもあれば、葉の集合をひとつの単位として、それらが形づくるリズムを感じることもあるだろうと思います。それで言えば、伊庭さんがどのような視点から風景にリズムを感じているのか、と。同時に、その視点は何によってもたらされているのだろうとも思いました。ペン画を手掛ける人ならば、その精細な描画材の特徴によって、葉っぱ一枚一枚にリズムを見て取るかもしれないように、伊庭さんが用いる筆や油絵具、あるいはキャンバスの大きさなどが伊庭さんの見方にも影響を与えているのでしょうか」
     伊庭は「確かに版画と油絵とでは、私自身の見方が全く違うような気がします。版画のときは物のかたちの方に目が行きますが、油絵では、風景の中の細かい葉のかたちは目に入らないです。例えば笹の葉のまとまりと杉の葉のまとまりを遠目から見ると、全く様子が違っているように見えますよね。私が風景を見て反応するときは、葉っぱが寄り集まったときに生まれる質感の違いに反応していると思います。そして、それを描いていくときには、編集を加えて、どうやってぼかしていくかを考えます。心地よい手触り感をどのように感じさせるか。風景の作品を描くときも、かつてクッションをモティーフにした作品を描いていたときと似た動機を抱いています」
     ここで語られていることは、伊庭の制作が目に映るすべての要素を拾い上げ、それらを克明に描こうとする態度とは別の機制によって動いているという事実である。その機制を、関川は「取りこぼす」という言葉で言い表す。「伊庭さんは質感を浮かび上がらせるために、伊庭さんの見出している質感と拮抗する要素を、意図的に取りこぼそうとしているのではないかと思いました。形を見えなくすることで質感を浮かび上がらせる、葉っぱのディティールを隠すことで別の質感を強く感じさせる、というように」 
     事実、伊庭の制作プロセスを知るとき、こうした関川の指摘は妥当なもののように思える。先述した通り、伊庭は自身が撮影した写真をもとに制作をするのだが、写真を撮影した後はその写真を手掛かりに、予め、同系色で明度差のみを変えた絵具をカラーパレットのように数十種類準備し、その絵具を用いて制作を進めていく。すなわち、伊庭は、逐一モティーフの固有色に合わせて絵具を作っていくのではなく、ある作品の中で使う絵具の色数を最初に限定し、その限定した色数の中でやりくりをし、制作を進めているのである。
     伊庭は「自分の制作が『取りこぼす』という言葉で言い表されるとは、これまで思ってもみなかったのですが、考えてみると、取りこぼすのがうまく行った作品に対して、自分は手ごたえを感じているように思います。取りこぼしが少ない作品は、形が見えすぎたり、写真に寄りすぎたりして、うまく自分の絵になっていないような気がします」と語る。
     
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    モティーフを選び、写真に撮り、その写真をもとに、うまく取りこぼしながら絵を描くこと。こうした伊庭の行為を形容するには、どのような言葉がふさわしいのかと関川は考える。「例えば、目の前のペットボトルを描こうとするとき、その行為は、かたちを紙の上に『模倣する』や『写し取る』、あるいは『省略する』や『要約する』と言えるかもしれないし、場合によっては『塑像する』や『規定する』とも言えるかもしれません。しかし伊庭さんの行為は、いま言ったものとは違う気がしています。ここまでの話で確認したとおり、伊庭さんは質感を描いてはいるけれど、その質感はおそらく客観的に確認できたり、誰かと一緒に同じ対象物を見るかのように共有できるものではないような気がします」
     これを受けて伊庭は、自身が絵の中で表したいと考える「質感」について説明する。「私の作品を見る人には、モティーフが持っている理想的な質感を想像したり、あるいはかつてそのモティーフに触れた際の質感の記憶を思い出したりして欲しいと思っています。私は作品を通して、鑑賞者の想像や記憶へとつながっていくというような、そのような回路が作れたら良いと考えています」
     伊庭のこうした意図が成功していることは、多くの人が認めるところであるだろう。伊庭の風景画が、どこか特定の場所を描いたものであることは間違いない。しかし伊庭は、それがどこなのかを示す要素を作品の中で強調することはないし、時に固有名で表すことのできる対象が絵の中に描かれないことだってある。こうした意味合いにおいて、伊庭が描くのは匿名的な風景であると言えるだろう。しかし、そうした風景を見ているにも関わらず、あるいは、匿名的であるがゆえに、私たちの感覚は動き出す。鑑賞者は伊庭の作品の前で、自身がかつてどこかで見た樹木の葉がかたちづくるふわふわとした質感を思い出し、穏やかな風が木々の葉を揺らすときの音を聴くことになる。
     つまり伊庭は、モティーフが持つ質感を再現しているのでもなければ、鑑賞者がモティーフに見出す私的な感覚を表現しているのでもない。伊庭が作品で扱うのは、モティーフに誘発されるかたちで鑑賞者が感知する物の「質感」である。その「質感」はモティーフと鑑賞者の内面のどちらか一方においてではなく、双方にまたがる仕方で、あるいは両者の「あわい」に成立する。
     
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    では、「あわい」に生じる「質感」を描き出す伊庭の制作行為は、果たしてどのように形容すれば良いのだろうか。関川は、「確かまっていく」という言葉を考えつく。「確かまっていく」とは不思議な言い回しだが、そこには「広まる」や「高まる」のように、対象の自立的な運動によって、何かが「確かになっていく」というニュアンスが込められている。
    ここまで確認したとおり、伊庭は、自身が撮影した写真をもとに、それを「取りこぼす」ことによって描いていく。また、そこで伊庭が描き出そうと試みるのは、客観的な仕方では実在しない「質感」である。こうした伊庭の制作は、言うなれば、丹念に見つめ精緻に描き出すことによって「確かなもの」を画面に定着させようとする画家の振る舞いとは、全く逆の態度によって行われる。「取りこぼす」ことを通して、捉え難い感覚が画面に表れていく。関川が用いた「確かまっていく」という言葉は、このような伊庭の絵画イメージの成立過程を言い当てている。
    モティーフと〈私〉の「あわい」に生じる捉え難い感覚が「確かまっていく」ように仕向けること。伊庭と関川の対話においては、「伊庭が画家として行っている行為」をこのように言い表すことになった。
    興味深いのは、そうした伊庭の行為を視覚的にイメージする際に私が想像するものとは異なったイメージを、伊庭自身が抱いているということである。
    一方に物や風景があり、もう一方にそれを見ている〈私〉がいる。その「あわい」になにがしかの感覚が成立する。その感覚を画面に定着させる画家の行為をイメージするとき、画家は物と〈私〉のあいだにキャンバスを置くと想像するのが一般的ではないだろうか。しかし、伊庭は自分がキャンバスを置く位置は、物の向こう側であると言う。
    「私が手掛けているのは具象画であるので、私の絵を見てくれる人は、例えば風景や陶器やクッションのような、具体的な物を最初に目にします。私が見てほしいと思っているのは、具象的な物を通して見える感覚です。制作するときの感覚として、物と〈私〉の間にキャンバスを置くようなイメージを持っていると、ひょっとしたら描く対象を抽象化したりするかもしれません。しかし私はそうではなく、キャンバスを物の向こう側に置きたいと思います。物を自分の側に引き寄せるのではなく、物を見ているからこそ生じる感覚、物にフォーカスが当たっているときにこそ生まれる感覚を捉え、それを確かなものにしたいと考えています」
     
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    以上、ここまで「伊庭靖子は、画家として何を行っているのか」という問いをめぐって発せられた伊庭と関川の言葉をまとめてきた。最後に落ち穂拾いめくが、ここで取り上げることのできなかった、印象に残ったやりとりをいくつか、書き留めておきたい。
     
    関川「絵のモティーフを探しているとき、モティーフを自分から見出しに行っているような感覚を持っていますか?それとも、モティーフから何がしかのものがこちらに与えられる感じですか?」
    伊庭「作品を作ろうと思っているときには、自分から探しに行っている感じです。でも、時々は、風景や物の方から私に、何かが与えられた感じがすることもあります。どちらの方が良い作品になるということはないですが」

    安河内「伊庭さんのこれまでの作品を振り返ると、時期ごとにシリーズに分かれていますよね。いまは風景を描いていらっしゃいますが、かつてはクッションや陶器を描いていた時期がありました。なぜそういうふうに分かれているのでしょうか?」
    伊庭「たしかに時期ごとに作品は移り変わっています。でも、それはモティーフの移り変わりというよりも、作品で扱っている光の種類ごとにまとまっています。かつて陶器とクッションをモティーフにした作品を同時に手がけていましたが、そのときは、はっきりとした光沢と柔らかな光を対比したかったので、陶器とクッションの作品を同時に制作し、同じ展覧会に出品していたりしました。そんな風に時期ごとに追求したい光があるのですが、ある程度進めていくと、描き方がわかってくるようになります。そうなってくると描き方を端折ってしまって、絵が薄くなってしまうような感覚を覚えることがあります。そうなると、そのシリーズは終わって次のシリーズに行くことになります」

    関川「伊庭さんの作品はたとえ風景を扱っていたとしても、パースを強調するように描かれているわけではないし、ある部分は触覚的な感覚を喚起するものとして描かれていたり、絵の中にパースがありながら、それを打ち消すような構図になっていたりします。つまり、私がここにいて目の前に広がる風景を見ているというような古典的な風景画のあり方というか、目の前の風景が私に向かって収斂し、結果として私が再強化されるというような、私と風景の関係性を、伊庭さんの作品は形作らないですよね。伊庭さんの風景の作品を見るために壁に掛けられた絵と色々な距離をとって見てみると、ある距離のところで作品全体がホログラムのようにみえたことがありました。その状態になったとき、従来の風景画が与える、私がいて風景を見ているというような経験とは、決定的に異なった経験をする。伊庭さんの風景画はそういう経験を与えるものとして成立していると思います」
    伊庭「私の風景の作品は、風景のミニチュアのように見えると言われることがあります。そんなふうに、私の風景の作品を見て、そこに描かれている風景がどの視点から眺められたものか分からない感じがするのは、私が写真を撮影しそれを絵にする前に編集を加えているからですね。風景の作品を手がけ始めた最初から自覚していたわけはないのですが、このシリーズでは距離を操作することを意識して、自分が撮影した写真を編集しています。その結果、どこから眺められたか分からない風景になっていると思います」

    関川「僕たちは言葉になれているから、何かを見るときに、『これはペットボトルだ』とか、『机だ』と、すぐ概念に引きずられて見てしまいますよね。でも、概念に引きずられる前のただ物を見ている状態の感覚も、知っていると思います。これは伊庭さんの意図とは違うのかもしれませんが、伊庭さんの作品にはそうした瞬間的な、捉え難い感覚が定着されているように思います。伊庭さんの作品を見ると、そこに陶器やクッションや並木道を見ようとも、『いま自分が見ているものは何だったっけ?』と理解が立ち遅れるような感覚を覚えることがあります。稲垣足穂の『薄膜界』になぞらえることもできるのかもしれませんが、何かをはっきりと見ようと意図したときには見ることができなくて、ふと横を見たときにだけ一瞬垣間見えるような、捉え難い感覚と関わっているように感じます」
    伊庭「そう言っていただけると嬉しいです。遅れて理解する感覚は、絵を描くときに大切にしたいと感じています。このような言い方が適切かは分かりませんが、自分の作品が、頭で理解するのと体で理解するのが分かれるような作品になって欲しいと思っています」

    イベント概要

    • 日時

      2024年3月5日(火)~24日(日) *月曜休館

    • 時間(詳細)

      9:00ー17:00

    • 会場

      芸術文化体験棟 スタジオ302・304

    • 料金

      無料

    • 主催

      なら歴史芸術文化村

    • 助成

      令和5年度文化芸術創造拠点形成事業