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文化村クリエイション vol.2 相模友士郎『ブラックホールズ』
開催期間
2022年12月23日(金)~25(日)(5回公演)
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申込終了
「文化村クリエイション」は、先進的な取り組みを行うアーティストを招聘し、リサーチ、制作、作品発表を行うと共に、その創作の様子を公開していく試みです。
第2回目に招聘するのは、演出家の相模友士郎さんです。相模さんは、劇場で観客が観る行為そのものを問い直す作品や、人と人、または人と人以外の存在がただそこに「在る」状態を見つめるような作品をつくってきました。近年は特に、出演者は不在で舞台上に植物を置いた作品『LOVE SONGS』を発表するなど、人以外のものの時間や性質に肉薄することでマクロなスケールへと接続し、私たちは等しく人であることと、それぞれに特異で個別であることを同時に確認することを試みています。
8月からリサーチを開始し、奈良へ通って土地を知ると共に、「眠り」をキーワードに文献などを調べています。また11月からは奈良での滞在が始まり、12月に発表する作品づくりを少しずつ進めています。相模さんが創作の中で書き留めるメモや記録は、創作メモ「舟を漕ぐ」としてオンライン上で公開していますので、覗いてみてください。そしてどうぞ、12月の公演をお楽しみに。
■創作メモ「舟を漕ぐ」
オンライン上のGoogleドキュメントで創作のためのメモを公開しています。この創作メモは相模さんによってリアルタイムで更新されていきます。本作品のリサーチや思考の断片に触れると共に、タイミングが良ければリアルタイムで創作メモが書き進められていく時間に立ち会えるかもしれません。
https://docs.google.com/document/d/1IsR3pXfvrtxTgGjENXPpldjEvpSNUXtByFFbnNwQZRo/edit?usp=sharing
■プロフィール
相模友士郎(さがみ ゆうじろう)
1982年福井生まれ。演出家。2009年に伊丹に住む70歳以上の市民との共同制作舞台『DRAMATHOLOGY/ドラマソロジー』を発表し、翌年フェスティバル/トーキョー10に正式招聘される。2012年にダンス作品『天使論』をTPAM in YOKOHAMA2012にて発表。『天使論』は各地で再演され、TPAM in YOKOHAMA 2015にてタイのダンサー(Kornkarn Rungsawang from Picket Klunchun Dance Company)との国際コラボレーション作品として再演。2018年にはGRANER(スペイン・バルセロナ)にアーティスト・イン・レジデンスプログラムで滞在。近年の作品に『LOVE SONGS』(2019, 京都市東部文化会館)、『エイリアンズ』(2019, 京都芸術センター) ほか。
http://sagami-endo.com/
■公演レビュー
これまでも継続的に相模さんの公演を観てこられた古後奈緒子氏(舞踊史研究、舞台芸術批評家/大阪大学文学部准教授)に、本公演についての批評文を執筆していただきました。
環境と身体をつなぐ孔 『ブラックホールズ』
文=古後奈緒子
●敷居の時間・空間
そこを通り過ぎることでものの見え方が変わったり、あたかも世界を覆う皮膜が一枚消えたかのように、戻った場所すら違って受け止められたりする −− 儀式や演劇に共通するそうした時空のことを、リミナリティ(境界状態)と言います。通過儀礼の一段階を指すこの考えでパフォーマンスがさかんに語られたのは、私たちを取り巻く環境へと意識を高める試みが、地球や惑星レベルで探られた時代でもありました。
2022年の年の瀬になら歴史芸術文化村でつくられた、文化村クリエイション vol.2 相模友士郎『ブラックホールズ』の体験を振り返るのに、この考えは一つの手がかりとなります。ただ半世紀を経て、入り口と出口で私たちをとりまく環境は変わりました。本作をとおしてその現実にどう出会い、感性から実践へのいかなる回路をひらいてゆけるのか。道のりをたどりつつ考えたいと思います。
●入り口の光景
どこからどこまでが作品なのか、相模氏のパフォーマンスではしばしば曖昧にされます。本作でも受付を終えロビーに留め置かれていた観客は、ホールに入る前にアーティストに館内を案内されることになりました。ツアー・パフォーマンスさながらに皆でぞろぞろ歩いて、最初に足を留めたのは1階のエントランス。ガラスの壁越しにいくつもの空間が見通せる場所から、この村の複合的な性質が体感されます。
建築が示すように、ここでは先進的なアートの制作と歴史的な文化財の修復という、一見対照的な営みが公開されています。壁の向こうは子どもが参加できるアートプログラム専用のスペース。別の壁の向こうは道の駅で、自家用車という私空間がぽつりぽつり入って来ます。開かれてまもないこの村には、芸術文化と観光という、グローバルかつローカルに日本が未来に賭ける産業が組み合わされている。そんなことを考えていると、自分が立っている今ここが、近代および資本主義の領土の臨界のようにも感じられてきます。
●道しるべ
次に私たちは階段を上りきり、3階の展望デッキに立ち留まりました。裏手の池の向こうに連なる山々の呼気を感じながら、一番遠くに霞むのは、信仰の対象として名高い三輪山だと教わります。そうして「こんもりしていればほぼ古墳」と見做される山並みを手前へなぞり、ガラス張りのスタジオ内に移動して滞在リサーチの成果が共有されました。種々のメディアを組み合わせたその手法が、のちに体験と記憶が結晶する核となります。
ここからホールに至るまでの小半時は、劇場の裏表を縫って、3階から地下への経路を下降してゆきました。道中では窓や扉など種々の敷居に接し、視覚と触覚を混ぜ合わせ、パフォーマー/スペクテイターなどなどの境界をうやむやにしてゆきます。この過程における私たちの変成のしるべとなるのが古墳、そして、思い返せば待合のロビーを含め全ての留(=駅station)に置かれた光でした。
●古墳を「踏」む?
古墳は大昔の死者たちが眠る墓であり、私たちが触れえぬ領域へ誘うロマンチックな文化装置です。ところが最初に臨んだ遥けき姿から、フィールドで撮影された写真や映像のサンプル、信仰の仕組みに分解された構造の説明などを経て、それはアウラを剥落させた物質、すなわち土として私たちに差し出されます。ついにホールに通された私たちは、シンプルながらも意味の覆いが外れていなければなし得ないやり方で、土に触れることを促されたのでした。
その動作をもくもくと遂行する中、頭をよぎる舞踊史や芸能史の中の土の記憶にもまして確かだったのは、自分の足裏が久しく土に接していないという気づきでした。この日常につながるタスクを続けてゆけば、舗装によって日々疎外されてきた身体感覚のいくばくかは耕せることでしょう。一方、足の裏から意識を下ろしてゆこうとする中で、舞台上に枠づけ盛りつけされた土から返ってきたのは、「掘れば何かが出土する」と言われるまほろばの真正性や土着性、はたまた母なる大地や自然の懐から、まずは切り離されているという感触でした。
これは戸外に地面を求めて裸足になっても、同じなのかもしれません。考えてみれば、私たちの生を取り巻いているのは、開発された土地の上に区画され建造物を重ねた人工環境なのですから。
●触れてくる光と闇
神秘の覆いを払って地に向き合うと、人間の環境との関わりにおけるいわゆる「人新世」が問題となります。産業革命、さらに遡れば農耕の開始以来の伝統で、私たちは日々の営みの中で自ずと操作可能なモノのシステムを増強し、自らその中に閉じ込められている。
これと似たように、意識に現れてくるあれやこれやの人文学的解釈に作品体験が閉じそうになると、相模作品ではその外部があることに様々なやり方で気づかされます。『ブラックホールズ』で、システムの穴あるいは裂け目のように現れてきたのが、それぞれの留で存在をアピールする光でした。
芸術作品における光は通常、人や物を照らして自らは知覚の地となるものですが、本作では何かしら図として現れてから私たちを情景に巻き込んでゆきます。ある時は知る人ぞ知るダンス作品の中の鹿の目のように、静かにこちらに差し向けられている。またある時は山の方角から館内へ穴を穿たれたように注ぎ込み、建物の開口部の開け閉めで自然光の溢れと溶け合ってゆく。土の上の蛍光灯は、古墳の死を管理する人工の結界のように私たちを阻み、窓から降り注ぐ陽光は、悠久の彼方でこれを反射した存在を証し、無限に広がる宇宙へと誘うかのようです。
最後にたどり着いたオーディトリウムでは、仰ぎ見た窓がゆっくり閉じられ、瞼を閉じるきっかけとなります。その後は、フィラメントから滴り落ちるかのように微かな音と光の粒と、私たちを包み込む暗闇ばかり。
●眼を開けていては見えないもの
ここまで見てきたように『ブラックホールズ』には、太古から現代、地中から惑星へおよぶ複数の時空が呼び寄せられており、それぞれの系は人工対自然のような二項対立を貫く光などで物理的に関係しあっています。そして、いくつもの留を通り抜ける中でのオブジェの変容に示されるように、私たちは、環境を構成する物たちに意味や価値を与える者として関わるのをやめ、ある現実に触れさせられる。リサーチ資料として共有されている思想に言葉を借りると、それはボディを持つ私たちが、複数の系が織りなす環境にフィジカルに編み込まれて在るという現実です。そこでは「共生」は、序列化と排除を常態とする人間間の理念にとどまらず、またそれを生物種間に押しひろげたのでもない、あらゆる「人間ならざるもの」との間に開けているエコロジカルな現実なのです。
パフォーマンス作品としての『ブラックホールズ』の真骨頂は、私たちをこのような現実に向けて変成するタスクであり、日常の中で反復できるプラクシスとなる行為を組み込んでいるところです。ここで私は、ポストモダンダンスの泰斗が、「歩く」「見る」といった日常行為を取り上げ、私たちが自動的にそれを行うやり方に注意を払い、そうでないやり方を試す中で、驚くばかりの気づきや発見を引き出したワークショップを思い出します。本作の最後に促された「睡眠」は、この歴史的試みにおいて指摘されてきた限界を突き抜けています。何より、生活に避け難く埋め込まれアビリティ無用なこの行為をもって『ブラックホールズ』は、構造化された関わりをオルタナティブへ調整する「易くて無料の」実践や方法論とともに、私たちを日常へ送り返すかのように思われるのです。
▼詳細はこちらから
https://sites.google.com/view/bunkamura-sagami/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0