奈良ゆかりのアーティスト

なら歴史芸術文化村のスタジオを拠点に、気鋭のアーティストがリサーチと制作を行う「文化村クリエイション」。一人目のアーティストとして招聘している、黒田大スケさんにお話を伺いました。

これまで奈良では、2013年に桜井市、2016年に奈良市にて滞在制作と展示を行った経験があります。 今回は3月21日〜5月8日までリサーチし、制作した作品を冬に展示する予定です。また5月8日までは、黒田さんの作品を紹介する展覧会も併せて行っています。

 

 

 

02KurodaDaisuke

  • アーティスト
  • 黒田大スケ 氏

Profile

1982年、京都府生まれ。広島市立大学大学院博士後期課程修了。彫刻家、橋本平八の研究で博士号取得。作品制作の他に展覧会の企画運営もてがける。アーティスト・コレクティブ「チームやめよう」主宰。現在、関西を拠点に活動。彫刻に関するリサーチを基に、近代以降の彫刻家やその制作行為をモチーフとしたパフォーマンス的要素の強い映像を制作、シリーズとして展開している。主な近年の展覧会に、「どこかで?ゲンビ」 and DOMANI @広島「村上友重+黒田大スケ in 広島城二の丸」(2022)、「対馬アートファンタジア2020-21」対馬市,長崎(2021)、個展「祝祭の気配」トーキョーアーツアンドスペースレジデンシー,東京(2021)、「未然のライシテ、どげざの目線」京都芸術センター(2021)、個展「不在の彫刻史2」3331 Arts Chiyoda、東京(2019)、「瀬戸内国際芸術祭2016」小豆島旧三都小学校,香川(2016)など。

これまで扱ってきたテーマや作品についてお聞かせください。

社会の中で忘れられたり無視されたりしているような、例えば幽霊の様な存在に姿を与えるように作品を制作してきました。近年は自身が長く学び制作の指標としてきた「彫刻」という芸術形式について、彫刻家や作品とその背景について様々にリサーチを重ね、作品制作をおこなっています。文化村のオープニング展覧会で自己紹介的に展示した作品は、窓ガラスに息でイメージを描く様子を記録したビデオ作品です。はっと息を吹きかけて白く曇ることでイメージが浮かび上がってはすぐ消えるもので、息という透明なものを、窓ガラスという別の透明なものが媒介することによって捉えています。透明で曖昧で不確かで儚いもののための手法で、私にとっては、だんだんと息苦しくなる社会に対するささやかな抵抗のようなもので、大事にしている制作の手法です。展示した作品では、かつてあった飛行場付近を飛んだ飛行機を描いています。

黒田大スケ《いつかの飛行機》2016 ビデオ

奈良とはどのような関わりと印象を持っていますか?

作品制作の関係で奈良に初めてきたのは2013年で、桜井市に行きました。それから縁あって度々制作に訪れています。桜井では商店街の方に助けていただいて滞在制作をしたのですが、丁度商店街のアーケードが取り払われるときで、遠い歴史が大切にされるのに対して、近い歴史の方はあまり注目されていないという感じがして、アーケードの街灯をもらって作品にしたりしました。そのときから、あまり注目されていない奈良の近代の歴史について興味を持つようになりました。

今回のリサーチについて教えてください。

柳本周辺にあった通称:柳本飛行場(大和海軍航空隊大和基地)のリサーチを進めています。先行研究を参照しつつ飛行場の痕跡を訪れています。出来事を知識として得ることはできても、体験的なものとして知ることは難しいことです。現地を訪れ自分の足で歩き見聞を深めることで、いびつであっても自分の体と心のうちに出来事を内在化できるのではないかと思っています。そうした行為を「身体化」と位置付け、飛行場とその時代を自分なりに理解しようと試みています。

リサーチの様子

今回ここまでの滞在で、印象的だったことはなんですか?

柳本飛行場は海軍の手によるものですが、どういうわけか周辺の山々にトンネルや塹壕、つまり地下に基地のようなものを作り出そうとした痕跡がたくさんあります。ほとんどが時間経過とともに崩落したりしていますが、数少ない痕跡を見る機会が何度かありました。それらの多くは山中に唐突にあるもので、恐ろしいという意味では印象的でした。そしてこんな穴をゆるい地盤にいくら掘ったとしてもどうにもならなかっただろうと思わざるを得ませんでした。地域の古老の話によれば当時でも、海軍は負けが込んで海でやることがなくなり奈良まできて穴をたくさん掘ったと影で揶揄されていたそうですが、その穴の痕跡を前にしてもやはり、太平洋戦争末期の無茶苦茶さを思わずにいられませんでした。海軍は同時期に戦争映画も積極的に制作していましたが、奈良にある軍事遺構はむしろ映画の様にフィクションめいていて、現実と虚構、理想と現実が混じり合う臨界のようであり、芸術とは何かと考え込んでしまいました。