各界の識者が語る「わたしの記紀・万葉」

第12回 佛教大学教授 斎藤英喜氏

『古事記』のおもしろさは、「古代」「国文学」の枠を超えています。自由かつ奔放な視点で読んでほしい。

佛教大学教授 斎藤英喜氏

漫画少年から、『古事記』研究の道へ


斎藤先生には、奈良県が平成24年度に実施した古事記出版大賞の稗田阿礼賞に輝いた『古事記 不思議な1300年史』をはじめ、数多くの『古事記』にまつわるご著書があります。先生は、どのようにして『古事記』にご興味を持たれたのでしょう?
斎藤 実は、僕は漫画少年で、かつては漫画家志望でした。それでNHKの大河ドラマでもあった「平将門」を主人公にした漫画を描いていて、そのうちに、歴史のことが好きになってきたんです。
でも、一番のきっかけは、「文学の世界が、どうやって発生したのか?」の疑問。『万葉集』もそうですが、国家が出来上がる時期と、文学が出来上がる時期って、重なりますよね。そういう「国家と文学の発生」について勉強しだして、そこから文学の世界にどんどん入っていって。
その後、法政大学の国文科で『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』を勉強し、成城大学の大学院を経て、日本大学の博士課程に行きました。僕は、基本的には国文学なんですけど、結局、『古事記』のおもしろさは国文学の枠を超えるんです。歴史学でもあり、神話学でも、民俗学でもあり。また、古代だけ見ていては『古事記』のおもしろさは分からないから、中世、近世を見る。そこで中世の神話の研究を進めました。学問というのは、そういう枠組みを超えてやらないと、だめだと思います。
今、僕が所属する歴史文化学科というのも、神話学や民俗学、人類学、地理学、考古学も取り入れて、いわゆる政治史や経済史とは違う歴史のことを学ぶところです。
そもそも先生は、歴史学というよりも、文学としての研究からなんですね。『日本書紀』や『万葉集』よりも、なぜ『古事記』を?
斎藤 もともと国文学ですから『万葉集』も勉強していましたし、論文も何本か書いています。ですが、逆に『万葉集』の歌というのは本当に「文学」の世界ですから、例えば、授業なんかで教えるのはすごく難しい。「文学」というのは、やはり個人の感情の世界ですから、なかなか学生には伝わらない。それよりも学生たちは、神話の世界に興味を示してくれた。僕にとっても、それは大きなことだし、僕自身、個人の感情の世界を超えた『古事記』に魅力を感じたということです。

人間的な神々の「成長」が、『古事記』の魅力


先生が大学で教えられているのも、神話、ということですか?
斎藤 僕の担当している授業は「神話・伝承学」といいます。『古事記』の「神話」プラス「伝承」という昔話や伝説を扱います。この二つを一緒に授業でやるというのは、日本でも、なかなかないと思いますよ。
たとえば、昔話の「桃太郎」は、なぜ桃から生まれてくるのか。桃以外でも、丸いものならリンゴやスイカでもいいわけですよね。でも、昔話にリンゴ太郎とかスイカ太郎は、いません(笑)絶対に桃太郎なんです。つまり、桃から生まれてくる、理由が何かあるんですよ。それが『古事記』を読めば分かる。
イザナギが、黄泉国の鬼を追い払うために桃を投げているんです。桃が、邪気を払う力を持つという考えは、中国の道教につながっていると思います。このように、どんどん話がふくらんでいく。こうした、昔話と神話の世界のつながりを研究するのが「神話・伝承学」というわけです。
斎藤先生にとって、『古事記』の魅力は、どこにあるのでしょうか。
斎藤 『古事記』に登場する神様たちは、人間的ですよね。アマテラスは疑り深い、とか、スサノヲは暴れまわっている、とか。でも、その人間くさい神様たちが、いろんな試練を経て、最後は、スサノヲの大神と呼ばれたり、アマテラスも鏡に魂をうつして祀られていく。神々は、物語の展開の中で成長していくわけです。そこに『古事記』のおもしろさがあります。『日本書紀』には、それがない。
また、『古事記』では、ヤマトということを非常に尊重しているんですけども、うまい具合に中国の思想や言葉も取り込まれています。そういう視点というのは、いわば、今日のグローバルとローカルを合わせた「グローカル」。『古事記』というのは、本当にグローカルな世界だな、と思います。この二つが、『古事記』の魅力ですね。
『古事記』の成り立ちについては、色々な謎があるのですが、結局、本当はどうだ、というのは分からないんですよね。僕は、『古事記』の序文は、神話であると思っています。『古事記』の重要性は、平安時代の初期に再認識されるのですが、太安万侶にしろ稗田阿礼にしろ、神話的な人物ですよ、平安時代の人からみると。『古事記』の世界は神話の世界ですから、その成り立ちそのものが、神話になっているということです。だから稗田阿礼が謎の人物だったのは当然ですよね。そういったところも、『古事記』のおもしろさだと思います。

もっと自由な視点で『古事記』をとらえる

2012年は、『古事記』編纂1300年の年でした。今後、『古事記』は、どのように読まれていくのでしょうか。
斎藤 そこは今、非常に関心のあるところです。『古事記』の世界が、どのように読まれてきたのかを突きつめていくと、日本人は『古事記』を通して何を考えてきたか、が分かってきます。本居宣長もそうですし、今取りかかっているのは、平田篤胤や、明治以降の「読み」の歴史です。
『古事記』を通じて、日本人は何を考えてきたか。その考えが、どう歴史的に変化してきたか。それが結局は『古事記』の読み替えであるし、神話を新しくつくっていくということでもある。それが、奈良を越えて、いろんな場所に読みつがれていく拠点ができるわけですね。そういうところも非常におもしろいなと思います。
奈良県では「『古事記』編纂1300年」として、いろいろな取り組みをしていますが、たとえば100年後、古事記1400年祭があるとしたら…。
斎藤 実は、明治の終わりに「古事記1200年祭」というのが実際にあったんですよ。当時は西洋に倣ってきた日本の近代化が行き詰まってきた頃。もう一度日本を見直そう、ということで、太安万侶の子孫や、本居宣長の子孫も招いて、靖国神社で盛大なお祭りをやっています。今回の「1300年祭」でも、そういう「日本を見直そう」という向きはありますよね。
ただ、『古事記』の中に「日本」という言葉はありません。近代や現代が見る「日本」という枠組みとは違う世界、もっと自由で奔放な世界が、『古事記』にはあるわけです。それを現代の日本に枠づけていくのは、どうなのかな、と思います。
次の「1400年」を考えるにあたって、日本というものを、もっと自由な視点で見るきっかけが、『古事記』にはあると思うんですよ。外国ばかりに目を向けるということではない。『古事記』は、中国という当時の最先端の文化を意識しながら、最後には日本独自の世界を作っています。まさに「グローカル」なもの。この視点が、これからも必要なんじゃないですかね。
記紀・万葉プロジェクトに、「こんなことをやったら、おもしろいのでは?」といったご提言があれば、ぜひ。
斎藤 『古事記』をとっかかりにして、どういうふうに広げていけるか、という視点でしょうね。たとえば先ほどの、『古事記』に日本の昔話の原型がある、という話ですが、奈良県の三輪山は、人間と異類のものが結婚する話、「異類婚姻譚」のメッカです。『古事記』にある、三輪山の大物主(おおものぬし)が通ってくる話が、昔話に変わっていって、中世、近世と、「鶴の恩返し」のような異類婚姻譚のさまざまなバリエーションができた。そんな広がりに、もっと目を向けていったほうがいいんじゃないでしょうか。 そう、『古事記』を起点として、奈良そのものの1300年間を考える、というのはどうでしょう?
たとえば、奈良に陰陽町(いんぎょまち)という、江戸時代に民間の陰陽師が集まっていた集落があります。これは直接は『古事記』と関係ないんですが、陰陽師の人たちが祈祷をする時には「祭文(さいもん)」という、古事記に出てくるような神話を読み上げるんです。これもたどっていくと、やっぱり『古事記』につながってくるんじゃないかな、と思います。
なるほど、今までは「1300年前」ばかりに目がいっていましたが、「1300年間」を考える、ということですね。本日はありがとうございました。
さいとう ひでき
プロフィール
1955年 東京都出身。
1981年 法政大学文学部日本文学科卒業。
1990年 日本大学大学院文学研究科博士課程満期退学。
2000年より佛教大学歴史学部歴史文化学科教授。
口承文芸学会会員、日本文学協会会員、日本宗教民俗学会会員。
著書に『古事記 不思議な1300年史』(古事記出版大賞・稗田阿礼賞)、『荒ぶるスサノヲ、七変化』、『古事記はいかに読まれてきたか』、『古事記 成長する神々』、『陰陽道の神々』など。