各界の識者が語る「わたしの記紀・万葉」

第18回 会議通訳者 長井鞠子氏

通訳の仕事では、話す人の「思い」までを伝えることが
大切だと思っています。

長井鞠子氏

奈良が大好き

2014年の3月にNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」に出演されましたね。
ちょうど、飛鳥藤原京を世界遺産にするための会議の同時通訳をされている様子も紹介されていましたが、話し手の思いを伝えるために、その熱意が乗り移ったかのように通訳をされる姿や、大ベテランとなった今でも、手書きの単語帳を作るなど地道な下準備をされている姿を、とても感動しながら拝見しました。
長井 私は古代史が好きなので、本当はあの時、遺跡を見にいく方の通訳をしたかったんです。遺跡はまだひとつも見ることができていません。特に、斉明天皇の公共事業の痕跡などは、絶対に見に行きたいと思っています。歴史学的にどうこうというのではなく、古代の人たちがここで何をしていたのだろう、何を思っていたのだろうと想像しながら、その場に立てるだけですごく嬉しいんです。
私は本当に奈良が好きで、正倉院展にはこの10年、必ず行っています。朝の6時半に起きて、東京から日帰りで。また、平城遷都1300年の年には大極殿も見に行きましたよ。門から大極殿まで歩きましたし、擬宝珠から何から全部撫でるようにして見てきました。正倉院展では、宝物ももちろん興味深いのですが、借金の証文や戸籍、計帳などの文書が面白いと思います。
古墳にもよく行きます。古墳には墓銘碑などの文字情報はありませんが、ただその場所に立って、風がざわざわと吹いているだけですごくいい感じがしますよね。
あとは吉野の桜も見に行きたいですね。奈良県は、自分のふるさとと東京の次に大好きな県です。

それでも思いを伝えたい─同時通訳という仕事

その会議に出席していた職員が、長井さんが強い思い入れを持って通訳をしてくださり、日本語で言った言葉そのままだけではなく、意味がより分かるようにいろんなフレーズを補って通訳してくださったことに、とても感激していました。
長井 実はそれには問題もあるんです。通訳の仕事には、客観的に淡々と訳すやり方と、話し手の気持ちを汲み取って訳すやり方という2つがあって、どちらがいいというのではありません。前者は、訳に何の色も個性もつけず、情報だけをきちんと渡すもので、それを望むクライアントもいます。後者は、話す人の思いまでを伝えたいというもので、私はそちらなのですが、すごくわかってよかったという人もいれば、淡々と訳した 方がよいという人もいます。
通訳は編集や補うということをしてはいけないことになっています。ただ実際には、異なる言語の間で単語と単語が完全に一致することはほとんどありません。だから「これ」を訳す時には、その言語での「これ」に加えて、すこしプラスしないときちんと伝わらないこともあるのです。通訳理論として何が正しいかは答えが出ないようなのですが…。
それでもやはり私は思いを伝えたい。飛鳥藤原京の会議のような仕事では特にそう思いました。奈良側には「ぜひこれを世界遺産に」という思いがあるわけで、その思いを、ただの情報として伝えるだけでは面白くないだろうと。「ぜひこれを見てください」「ここにはこんな歴史の深い意味があるんですよ」というような思いはぜひ伝えたいと思っていて、私なりに必要だと思う補いはしていきたいとも思うのです。

神話の世界は連綿と続くべき

『古事記』『日本書紀』『万葉集』などを題材に、奈良県では「記紀・万葉プロジェクト」をすすめています。
長井 戦後、神話の世界があまりかえりみられなくなってしまったのはすごく残念だったと思います。神話の世界というのは連綿として続くべきものだと思うからです。だからこそ、奈良県がこのように熱意を持って取り組んでおられるのはとてもいいと思います。しかも、“奈良はこんないいものがあります” というだけではなく、きちんとしたパースペクティブ(展望)を持って、2020年に向けて複数年に亘るプロジェクトを実施すること、さらに国際的な視野も入れるというのは本当にいいことだと思います。

海外へ奈良をPRするために

外国人に、日本や奈良に興味を持ってもらい、「行きたい」と思ってもらうには、どのような方法が効果的でしょうか?
長井 ■ホームページの充実
奈良県のホームページの英語版は充実していますか。仕事がら日本のことを英語で調べる必要があるので、政府のホームページを含め色んなサイトを見に行くのですが、よくできているところと、そうでないところとがあります。奈良はいいものを持っているので、工夫すればすごくいいものができるのではないかなと思います。
ホームページは本当に充実させる必要があります。今の世の中、ほとんどの人はまずウェブを見るのではないでしょうか。何かのきっかけで奈良に興味をもった人が、まずホームページを見たときに、面白いページになっているといいですね。これは面白いぞと行きたくなるような、あまり文字が多くなくて、動画もたくさん入れてイメージを掻き立てるものです。詳しく見たければ、その先にリンクを貼って飛んでもらえばいいのですから。

■外国人に奈良の何を訴求するか・その際の留意点
奈良のどこを外国人に訴求するか、観光局としてもいくつかポイントがあると思うので、いくつかに絞って、その魅力をうんとPRすればよいと思います。テーマは絞らないと人は読まないでしょう。もっと詳しく知りたい人はその先で読めるようにできるのが、ホームページのいいところですよね。
留意すべき点としては、宗教に関することになると、自分が信じている神様ではないものについて、いくらありがたいと言われても、反感が先に立つ可能性があるということです。例えば大仏や仏像、お寺のことを言うときは、宗教とか神様とかではなく、なぜ人々が救いを求めたのか、なぜこれほどまでに仏教が人々の心を捉えたのかというように、人間中心の視点にすることによって、普遍性を持ち得るのではないでしょうか。日本では、たまたまそれが仏教だったという説明をすれば、外国人にも伝わりやすいと思います。今の世の中、みな人間とは何だろうとか、人間が幸せになるためにはどうしたらいいのかということを漠然と考えているかもしれません。そこにフィットすれば、そんなものがあるなら行ってみたいと思うかもしれませんよね。

4年前の東日本大震災の際、日本人はなぜあれほどルールを守り、お互いのことを考え、黙って水を貰う列に並んでいたのかと、欧米のマスコミがびっくりしたそうです。
戦争直後や関東大震災直後の映像を見ても、日本人はみな黙って並んでいます。このようなことを今の日本人のありようと比べながら、これらの行動のルーツは日本の古代にあるのかもしれない、というふうに持っていくと、外国人も興味を持つのではないでしょうか。
外国を知れば知るほど、日本ほどすべてのことがうまくいっている国はないと感じます。今日も週刊誌を見ていたら、コラムに、宅配便がきちんと届かず、途中で紛失したり、盗まれたりするような国もあると書かれていました。日本の宅配ではそんなことはめったにありません。非常に規律正しい国です。こんなふうにうまく回っているこの国には、奈良時代の国づくり以来の特性が生きているのかもしれないですね。

奈良を誇りに思ってほしい

最後に、奈良へのエールをお願いします。
長井 私はそもそも奈良を応援していますよ。うらやましいし、奈良に住みたいくらいです。古代日本は、漢字や仏教を入れるなど、いろんな意味で今の日本の骨格を作りました。その古代日本の礎は奈良で築かれたということを、皆さん誇りに思って欲しいですね。
ながい・まりこ
プロフィール
宮城県仙台市生まれ。国際基督教大学卒。大学在学中に開催された東京オリンピックで通訳を経験したことが、通訳という職業を選択する大きなきっかけに。1967年、同時通訳エージェントとして創業間もないサイマル・インターナショナルの通訳者となる。
以降、日本における会議通訳者の草分け的存在として、先進国首脳会議(サミット)をはじめとする数々の国際会議やシンポジウムの同時通訳を担当。また、各国要人や各界著名人の随行や記者会見通訳も多数。サイマル・インターナショナル専属会議通訳者/顧問。