なら記紀・万葉集大成連続講演会
第1弾「藤原不比等と日本」
2020年9月26日(土)13時30分~16時
会場:奈良県社会福祉総合センター6階大ホール
プログラム
第1部 |
基調講演「藤原不比等−藤原氏の光と影−」
講師:帝塚山大学考古学研究所特別研究員 博士(学術) 甲斐 弓子 氏
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第2部 |
パネルディスカッション「藤原京」
〈パネリスト〉
帝塚山大学考古学研究所特別研究員 博士(学術) 甲斐 弓子 氏
京都女子大学名誉教授 博士(文学) 瀧浪 貞子 氏
〈コーディネーター〉 編集者・俳人 倉橋 みどり 氏
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第1部
基調講演「藤原不比等−藤原氏の光と影−」
古代の世界をアニメにすると、その人物をどのように捉えているのか、大変興味があります。有間皇子や大津皇子はとてもハンサムな若者として登場いたします。一方、中大兄皇子は厳しい怖いイメージで描かれることが多くあります。彼は孫を非常に可愛がる祖父様で、決して鬼のような人物ではないのですが、当時の政治情勢や立場を考えるとそのイメージも仕方ないのかなと思います。藤原不比等もやはり立場上、表に出す顔、出せない顔の両面があったのではないでしょうか。
天智天皇8年、父鎌足が亡くなり家督は不比等に移ります。元来、神祇官の家に生まれ育ち、神様と朝廷の間をつなぐという絶大な権力を握る不比等は、政治は藤原が、神祇は中臣が執り行うものとし、政界で揺るぎない地位を築いていきます。不比等という人物は非常に頭が良く、新しい時代を切り開く時一族の繁栄を願って、ひたすらに突き進む、若い時はそういう人生を歩まれたであろうと考えています。しかしながら年齢を重ね、ふと振り返った時、その根底には自身の家の神祇というものがあり「本当にこれで良かったのだろうか」と思われたのではと感じます。天皇を補佐し国を盤石なものにしていかなければならない中で、当然その思いは他言できず、公の立場と私人としての心の中に、大きな葛藤を抱えていたのではないでしょうか。その思いは、不比等の子どもたちにも伝わっているように感じます。それは天平9年、不比等の息子の一人である房前(ふささき)が亡くなった時のこと。朝廷は盛大な葬儀を提案しますが、房前の遺族たちは慎ましく簡素に行いたいと申し入れます。これは房前の意志であり、こうした公私を分ける心が不比等から伝わっているように思います。また、娘の光明子は自身の4兄弟が長屋王を死に至らしめ、皇后になります。その非情は皇后になるまでは自分の使命と捉え、皇后になってその立場から振り返った時、不比等と同じような思いを抱かれたのではないか。そして仏様に救いを求め、施薬院であるとか悲田院の設置につながっていったのではないかと考えております。
父から受け継いだ「家」「氏」を強い責任感で守り抜き、一族を繁栄させた不比等には同時に苦悩もあり、神祇を根底にした一族が仏に救いを求めたことも、藤原氏の真の姿と言えるのではないでしょうか。
第2部
パネルディスカッション「藤原京」
倉橋:藤原京はどんな都だったのでしょう?
瀧波: 3つ大きな特徴があります。1つは唐の都に習い、初めて計画的に左京と右京という市街地を持ったこと。2つめはその左京と右京に豪族たちを住まわせ、そこから天皇のいる宮殿・内裏に出勤させる。そして出勤簿を作らせて勤務評価をし、天皇から給与を与えるシステムを作ったこと。いわゆる中央集権国家という形です。3つめは宮殿として初めて瓦で葺かれた都であったことです。
倉橋:なぜ、わずか16年で平城京へ?
瀧波:中央集権国家を作るには、豪族たちの左京・右京への移住が必須でしたが、うまくいかなかったのでは。彼らは藤原京に近い飛鳥に領地などがあり、移住せず通えたので。豪族の屋敷は多く見つかっているのですか?
甲斐:はい。この地域は身分の高い人、ここは一般の役人だろうとはわかっていますが、その先がまだというのが現状かと思います。名前が入った木簡や土器が出れば確かなのですが、なかなか難しいようです。
倉橋:藤原京はまだ発掘が進むのですよね?
甲斐:屋敷については今後も発掘が続くと思います。
倉橋:出土の可能性に期待し、
楽しみに待ちたいと思います。