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そうなのですか……!なぜ、そのように考えられるのでしょう?
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隋をはじめ、東アジアの多くの地域で仏教が信じられていたからです。仏教はインドから中国を経て、朝鮮半島の百済や新羅(しらぎ)にも入っていました。中国でも仏教容認派と弾圧派に分かれていたようですが、仏教を敵に回すのは良くないという結論になり、仏教を積極的に国策に取り込みました。当時の東アジアの中では中国と仲良くしておくのが得策ですから、周辺国も仏教を介して中国と交流を図ったのです。
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つまり、外交手段のひとつとして仏教を取り入れたということでしょうか?
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そういう捉え方もできると考えています。そもそも、日本で仏教を積極的に取り込んだのは馬子の父、蘇我稲目(そがのいなめ)でした。太子と馬子の関係のところで述べたように、太子はそもそも蘇我氏の血を引いているので、仏教を取り入れることに違和感はなかったはずです。
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血筋や諸外国との関係で見ると、太子が仏教と関わるのも不自然ではないですね。
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太子は「慧慈(※)」という、高句麗(こうくり)から来たお坊さんに出会うのですが、慧慈からも「隋は官制が整った大きな国で、仏法を保護している」という言葉を受けたそうです。太子は国家のモデルとして隋を意識していたので、隋に倣って日本に仏教を普及させることに積極的だったのではないかと思います。
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