やまと天理・伝説の謎解きの道めぐり

  • やまと天理・伝説の謎解きの道めぐり
  • 歴史の香りに四季折々の美しい自然が彩りを添え、古墳時代前期の大古墳が集中するヤマト王権発祥の地であり、その名は古く記紀に崇神天皇・景行天皇の御陵、この地あたりが霊魂宿る地だったことは疑いの余地はありません。この辺りからは二上山を遠景にした大和国中(くんなか)の眺めがすばらしい。南東に三輪山がなだらかな稜線を描き、古代ロマンの世界へいざなう夢の散歩道です。律令時代には上ツ道・中ツ道・下ツ道が走る。その上ツ道沿いに往時、我が国に文化をもたらした遣唐使が航海の安全を祈願した大和神社(おおやまとじんじゃ)。織田柳本藩の菩提寺や屋敷が残る町。もっと知りたい!もっと楽しみたい!謎解きの道巡りを歩いてみませんか!

【このルートをおすすめする観光ボランティアガイド】天理市山の辺の道ボランティアガイドの会

天理市山の辺の道ボランティアガイドの会

■ガイド団体紹介奈良盆地の東山裾に沿ってのびる日本最古の道といわれる「山の辺の道」は、四季折々に楽しめる自然環境に恵まれた絶好のハイキングコースです。万葉集にも登場する地名や旧跡、そして数多くの古墳が散在する、古代のロマンあふれる「山の辺の道」をはじめ、天理周辺に広がる古里を訪ねて下さる方々に満喫していただけるよう、私達37名のガイドがおもてなしの心でご案内します。 ■連絡先(ガイド申し込み先)天理市観光課(ボランティアガイドの会)〒632-8555 奈良県天理市川原城町605番地 電話:0743-63-1001 FAX:0743-62-2880ホームページアドレス http//www.city.tenri.nara.jp/

大和神社(おおやまとじんじゃ)

大和神社(おおやまとじんじゃ)

生い茂る木立に威厳ある神社で、祭神は日本大国魂大神という大和の国の地主神。神名にちなんでこの神社付近を「やまと」と呼んでいたのが、次第に広まり、奈良を指す言葉となり、やがて日本そのものを「やまと」というようになったといいます。奈良時代、朝廷の命により唐へ渡る使者たちは、出発に際して、航海の安全を祈願されました。また、旧海軍の戦艦大和の艦内には、ここの神の御分霊が祀られていました。毎年4月1日の大和の春祭のトップを飾る「チャンチャン祭り」が有名です。

長岳寺五智堂(ちょうがくじ ごちどう)

長岳寺五智堂(ちょうがくじ ごちどう)

奈良時代大きい楊樹(やなぎ)に因む霊地だというので、そのほとりに五智如来をお祀りする五智堂が建てられ、付近を楊本と名づけたという地名伝説があります。この五智堂は、長岳寺の飛地境内であり、創建は奈良朝の頃、善無畏(ぜむい)三蔵という人だと伝えられています。現存するものは、鎌倉末期と考えられ、明治41年に重要文化財として国の指定を受けています。その形から「傘堂」あるいは「真面堂」とも呼ばれます。江戸時代には床が張ってあり、上街道を通る旅人の休憩所になっていたと思われます。

黒塚古墳(くろづかこふん)

黒塚古墳(くろづかこふん)

黒塚古墳は柳本古墳群にあり、規模は全長130メートル、後円部径約72メートル、高さ約11メートルです。竪穴式石室は長さ約8.3メートル、幅約0.9~1.3メートル、高さ約1.7メートルで、粘土棺床上の割竹形木棺は長さ約6.2メートル、最大直径約1メートル、高さ約1.7メートルでした。築造時期は3世紀末頃で、真っ赤な朱に染まった石室から鏡・刀剣・甲冑などの副葬品、特に卑弥呼の鏡と呼ばれる三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡が1面出土しています。

専行院(せんぎょういん)

専行院(せんぎょういん)

天正12年(1584年)土地の豪族楊本範宣の本願により、圓誉上人を住職とし、当院の開山としたと伝わります。その後元和五年(1615年)織田信長の弟で織田有楽斎の五男尚長が柳本藩主となり、織田家の菩提寺として、厚く遇せられました。特に毎年7月に、12代藩主織田信成の遺徳を偲んで、「藩主祭」が柳本町をあげて行われています。

天神山古墳(てんじんやまこふん)

天神山古墳(てんじんやまこふん)

昭和35年(1960年)県道拡張工事で後円部の一部削られたのを機会に緊急発掘調査が行われました。全長113メートルの前方後円墳で短めの前方部はわずかな撥形で、天井石を設けない合掌形の石室に、約41キロの朱が納められていました。木櫃の内側に20面の銅鏡が置かれ、外部にも北に2面、南に1面置かれて、計23面の銅鏡が発掘されています。

景行天皇陵(渋谷向山古墳)(けいこうてんのうりょう/しぶたにむこうやまこふん)

景行天皇陵(渋谷向山古墳)(けいこうてんのうりょう/しぶたにむこうやまこふん)

行燈山古墳の南へ約700メートルの地点に並ぶように築かれている古墳です。前期古墳としては最大で、全長約300メートル、後円部径約170メートル、高さ約25メートルの規模を誇ります。築造は4世紀中頃であると思われます。第12代景行天皇の纏向日代宮伝承地は穴師坐兵主神社に向かう道の脇にあり、宮跡を示す石碑建つのみですが、「古事記」ではこの宮を賛美して、『纒向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮 夕日の 日翔る宮』と歌っています。また『倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し 美し』と、歌の情景がそのまま眼下に広がります。

崇神天皇陵(行燈山古墳)(すじんてんのうりょう/あんどんやまこふん)

崇神天皇陵(行燈山古墳)(すじんてんのうりょう/あんどんやまこふん)

第10代崇神天皇は記紀では「所知初国天皇(はつくにしらししすめらみこと)」「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とあり、初めて国を統治した天皇と表現し、また天皇の漢風諡号が「神を崇める」という意味をもっています。この古墳は4世紀に大和に君臨した支配者の墓でしょう。行燈山古墳は、前方後円墳で、全長242メートル、後円部径約158メートル、高さ約23メートルで、前方部を北西にむけています。前方部の濠と外堤は、幕末に柳本藩が改修を加えたものです。前方部側にアンド山古墳、南アンド山古墳が立地します。

長岳寺(ちょうがくじ)

長岳寺(ちょうがくじ)

天長元年(824年)、淳名天皇の勅願により空海(弘法大師)が大和神社の神宮寺として創建したと伝える名刹です。真言宗高野派に属し、俗に釜口山のお大師さんと呼び親しまれています。中世の盛時には広大な寺領を有し、多くの堂坊が建ち並び、真言秘法の大道場として知られていました。廃仏毀釈でさびれたものの、わが国最古の玉眼仏である本尊阿弥陀三尊像(重文)はじめ、鐘楼門(重文)など、重要な文化財を多く伝えています。

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