葛城の地には、「鴨族」と呼ばれる古代豪族が弥生時代の中頃から大きな勢力を持ち始めました。当初は、「高鴨神社」付近を本拠としていましたが、水稲農耕に適した本社付近に本拠を移し、大規模な集落を形成するようになりました。そのことは、本社一帯が「鴨都波遺跡」として数多くの遺跡発掘によって明らかになっています。彼らは、先進的な優れた能力を発揮して、朝廷から厚く召し抱えられました。そのような「鴨族」とのかかわりの中から誕生した本社は、平安時代には名神大社という最高位に列せられた由緒ある名社であります。
5世紀前葉に築造された墳長238メートルの西面する前方後円墳で、周濠は全周を巡る盾形とみられ、北側の周堤に接してはネコ塚古墳(一辺60メートルの方墳)という陪冢があります。埋葬主体は、三段築成の後円部に主軸を挟んで2基の竪穴式石室が存在し、うち南側石室の内部には、大王の柩といわれる竜山石製の豪壮な長持形石棺が納められています。なお、これは全国で唯一、現地で長持形石棺を見学できる事例となっています。国指定史跡。
平成13年度に石室の所在と現状を確認するための調査を実施したところ、大正年間になされた報告の通りの巨大な横穴式石室と家形石棺が存在することが判明しました。本墳は石室・石棺の型式から6世紀後葉の築造とみられます。石室内には、かつて水がたまっていたことを示す成水層がまだ厚く堆積しているために、正確な規模は不詳ですが、石室・石棺ともに6世紀後葉にあっては最大もしくは最大級と呼ぶに相応しいと言えます。
日本武尊白鳥陵(やまとたけるのみことしらとりりょう)
日本書紀によると、日本武尊(やまとたけるのみこと)は「東征(北関東から東北地方での戦い)からの帰り、能褒野(のぼの)(現在の三重県亀山市)で病に倒れ、その地に葬られました。日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、大和琴弾原(ことひきのはら)(御所市冨田)にいったん舞い降りた後、河内の旧市村(ふるいちむら)(大阪府羽曳野市)に降り立ち、その後、天に昇られた」と記述されています。現在、それぞれの地には御陵があり、これらは白鳥三陵と呼ばれています。
この地は修験道の開祖役行者神変大菩薩の出生地とされています。当寺は役小角の創建と云え、境内の一角には産湯の井戸が残されています。西に聳える葛城山系は、若き日の小角の修行の場であり、その主峰金剛山は、小角が鬼神を使って金峯山(大峯山)との間に石橋を架けさせようとした所です。後に葛城山系の峰々には、法華経が一品(いちぼん)ずつ埋納され(葛城廿八宿)、現在も葛城修験の道場として信仰されています。