烏土塚(うどづか)古墳
竜田川西岸の丘陵上に築造された前方後円墳。全長は60.5mで平群谷最大の古墳。玄室は巨石を用いて作られ、石室の高さは奈良県内で石舞台古墳に次いで高い。玄室、羨道に組合家形石棺を安置し、玄室棺の外側には斜線刻文が線刻されていることで有名。6世紀後半に築造。国史跡指定。石室内の組合家形石棺を保護するため、石室を玄門部分で施錠しており、鍵は教育委員会(中央公民館)で管理、貸し出ししている。[ ※ 年末年始、祝祭日は貸し出し不可]
御櫛(みくし)神社
椹原(ふしはら)の氏神で「延喜式」神名帳記載の式内社。祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)。かつては豊玉比咩(とよたまひめ)、玉櫛姫(たまくしひめ)などの地域色の強い神を祀っていた。
信貴畑勧請地
信貴畑の入口に勧請の地があり、毎年1月4日ごろ勧請縄が掛けられる。平群町には現在も6カ所で悪病や悪霊が集落に入り込まないように勧請縄を掛ける行事が伝承されている。同地には屋形内に十三仏板碑と舟形の如来坐像の石仏が祀られている。
樽観音石仏
信貴畑の辻に屋形が建てられ、その中に十一面観音の石仏が樽の上に乗っている。樽は酒樽ではなく、菜種油の樽。永代灯明を願った信者の寄進と思われる。石仏の高さは樽を含め1.42m。明和5年(1768年)の銘文がある。
信貴山 奥之院
本尊は秘仏の毘沙門天立像。物部守屋征伐の時に聖徳太子軍の先頭に立って奮闘し汗まみれになったと言われ、「汗かきの毘沙門天」と称されており、厚い信仰を受けている。境内奥の「聖地」から炭化した籾米が出土し、「焼き米」として珍重されている。
信貴山城跡
永禄2年(1559年)、松永弾正久秀(以下、松永久秀)によって信貴山雄嶽山頂に築かれた天守閣を配する県下最大規模の山城である。この山城の範囲は東西550m、南北700mに及ぶ。信貴山城城主で畿内の覇者として勢力を広げた松永久秀は天正5年(1577年)に織田信忠の軍勢によって滅ぼされる。
信貴山朝護孫子寺
聖徳太子が対物部守屋との戦で毘沙門天王を感得、軍法を受けて崇仏派が大勝したことから、「信ずべき、貴ぶべき山」として信貴山と命名し、信貴山寺を創建したと言われる。中興の祖、命蓮上人が平安時代に信貴山朝護孫子寺を拠点に布教する。命蓮上人の事績を描いた国宝「信貴山縁起絵巻」は当時の民衆の習俗や自然風景が克明に描かれ、美術史のみならず史料的価値も高い。
椿井城跡
戦国時代に築城された山城で、その範囲は南北300m以上に及ぶ。山裾は椿井氏の本拠であったが、平群谷北西から勢力を広げた嶋左近が椿井氏を破って自分のものとし、椿井城を築城した。西にある松永久秀の信貴山城に対抗するために、何度も整備が行われたとされる。現在も土橋や土塁、横堀、堀切の跡がはっきりと残っている。また、城跡から平群谷の風景を一望することができ、町内屈指の絶景ポイントである。
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