幕藩制度の過酷な支配体制を打ち破って王政を復古させようと行動を起こした志士達で、主将は明治天皇の前侍従中山忠光卿。総裁には、備前岡山出身藤本津之助(鉄石)、三州刈谷出身松本謙三郎(奎堂)、土州津野山郷出身吉村寅太郎の三総裁。そのほかに河内の豪農である水郡善之祐、土佐勤王党の那須信吾、大和中宮寺の侍講で国学者の伴林光平など、約80名の多彩な人達が加わっていました。文久3年8月14日、孝明天皇が攘夷祈願のために大和へ行幸すると仰せられたのをきっかけに決起し天皇の鳳輦を迎えようと、京都を出発。堺を経て、17日には大和五条の代官所を襲撃し、天領7万石余りを支配下にしました。ところが翌18日には「天皇の大和行幸の延期」「尊攘派公家の参内禁止」などからなる大政変が京都で起こり、皇軍の先鋒という大義名分も失われました。その後も再び大和行幸が行われることを信じ、十津川で兵を募って高取城を攻撃したり、各藩の追討軍を相手に各地で奮戦を続けましが、戦局は次第に不利なものとなりました。再起を誓いながらやむなく新宮から海路長州へ逃れようとしましたが紀州勢にはばまれてそれもかなわず、十津川村、下北山村、上北山村と北上し、川上村武木を経て足の郷峠越で東吉野村鷲家口における追討軍との最後の戦いで終焉を迎えました。徒労に終わっただけの暴挙と見られがちな天誅組の行動ですが、彼らの精神は5年後に明治維新となって実を結び、立派に受け継がれたのです。鷲家口で無念の最期を遂げた志士は今も村の人々の温かい手により守られています。