卑弥呼はここにいたか?・纒向遺跡を歩く

  • 卑弥呼はここにいたか?・纒向遺跡を歩く
  • 山の辺の道は古代から「国のまほろば」と称えられた青垣周る大和盆地の東端を曲がりくねって続く自然発生的にできあがった日本最古の道。纏向遺跡はその西方、纒向川扇状地に広がる東西2キロメートル、南北1.5キロメートルの弥生期最大の遺跡です。古代風景を訪ねて巡り歩けば、遙かなる太古の歴史のその先に卑弥呼の姿が見え隠れするかも知れません。

【このルートをおすすめする観光ボランティアガイド】桜井市観光ボランティアガイドの会

桜井市観光ボランティアガイドの会

■ガイド団体紹介桜井は古代ヤマトの中心地であり、日本の国のはじまりの地といわれております。弥生時代終期・古墳時代の幕開けから飛鳥へと続く数世紀にわたって花開いた歴史の遺跡・史跡が点在し、穏やかな風土と気候、四季織りなす豊かな自然は訪れる人々の心を癒します。そして今、纏向遺跡は邪馬台国大和説を決定付ける夜明け前にあって全国の古代史ファンが固唾を飲んで見守っています。その町をガイドするわが会は設立13年目。■連絡先(ガイド申し込み先)桜井市観光課 〒633-8585 奈良県桜井市粟殿432-1 電話:0744-42-9111(申込書の取り寄せのみ) FAX:0744-42-1747E-mail kanko@city.sakurai.nara.jp

纒向古墳群(まきむくこふんぐん)<東田大塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、纒向石塚古墳(国指定史跡)><(ひがいだおおつかこふん、やづかこふん、かつやまこふん、まきむくいしづかこふん)>

纒向古墳群(まきむくこふんぐん)纒向古墳群(まきむくこふんぐん)

遺跡西限部に集中する3世紀前半の遺跡群。最後の弥生墳丘墓あるいは最古の古墳とされます。近年の調査で全ての古墳の形状・範囲が確認されました。4基とも埴輪・葺石がなく、周濠をもち多彩な遺物が出土しています。また、纒向小学校校庭には纒向大溝(幅5メートル深さ1.2メートルの水路)の合流点が埋戻して地中保存されています。(写真左:東田大塚古墳 右:矢塚古墳)

纏向遺跡辻地区大型建物群跡<庄内式期中枢地域>(まきむくいせきつじちくおおがたたてものぐんあと しょうないしききちゅうすうちいき)

纏向遺跡辻地区大型建物群跡<庄内式期中枢地域>(まきむくいせきつじちくおおがたたてものぐんあと しょうないしききちゅうすうちいき)纏向遺跡辻地区大型建物群跡<庄内式期中枢地域>(まきむくいせきつじちくおおがたたてものぐんあと しょうないしききちゅうすうちいき)

平成21年に3世紀前半~中頃の大規模な建物群の遺構が見つかりました。4棟の建物が軸線をそろえて東西に一直線に並んでいました。立地は人工的に整地が施され、付近には特殊な工房跡もみつかっており、高い規格性とこの時代最大の建築であることから、纏向遺跡の中心的な人物の居館ではないかと推定されています。現在は埋め戻されていますが、日本史最大の謎である邪馬台国の大和説最有力候補地であり、今後の発掘調査から目が離せません。

纒向遺跡尾崎花地区<布留式期中枢地域>(まきむくいせきおさきはなちく)(<ふるしききちゅうすうちいき>)

纒向遺跡尾崎花地区<布留式期中枢地域>

辻地区の大型建物は3世紀中頃廃絶しすべての建物はここ尾崎花地区へ移築して中枢部を移したとものと推定されています。景行天皇陵と珠城山古墳群に挟まれたここでは3世紀後半~4世紀前半にかけての人工的な平地、水路、特殊目的施設(居館や倉庫)を他から区画するための柵列を伴う土塁、V字溝等が検出されており鍛冶滓、絹巾着等も出土しています。纏向から初期ヤマト王権へと連なる遺跡として調査解明が期待されます。

額田王歌碑からの三輪山(ぬかたのおおきみかひからのみわやま)

額田王歌碑からの三輪山

667年、天智天皇の近江遷都に従駕した額田王が遠ざかる三輪山への溢れる愛惜の情を歌った万葉絶唱。山の辺の道を南下時はここではじめて三輪山の全景が眺められ、北上時は最後の地点となります。三輪山眺望の絶好地として山の辺の道のシンボル的スポットです。遷都の行列は眼下にひろがる大和国中中津大道を飛鳥から平城山へと進みました。纏向遺跡の人々も崇敬し天皇家の守護神である大神神社のご神体三輪山に雲がかかる。なんの予兆であったのでしょうか。

箸墓古墳(はしはかこふん)

箸墓古墳(はしはかこふん)

全長280メートル後円部径160メートル。3世紀中頃突如出現した巨大古墳。倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちばか)として陵墓指定されています。日本書紀に被葬者や造立模様などの記述があり、一方築造時期や規模などから卑弥呼の墓説もあり、近接する纒向遺跡の大型建物群跡とあいまって話題は尽きません。この古墳をもって古墳時代の幕開けとします。当初は葺石におおわれていましたが今は立入り禁止で鬱蒼とした常緑樹に覆われ神秘的な姿を大池に映しています。

ホケノ山古墳(ほけのやまこふん)

ホケノ山古墳(ほけのやまこふん)

纒向古墳群のなかで箸墓とともに遺跡中央部に位置します。全長80メートル、径55メートル、3段築成の後円部、25メートルの前方部をもつ前方後円墳です。周濠の痕跡、3基の埋葬施設が検出されていますが、中央のものは石囲い木槨とよばれる特別な構造で埴輪はありませんが葺石をもちます。画文帯神獣鏡など鏡、武器、農工具など多量の遺物が出土しました。墳丘墓が前方後円墳として統一化される直前(3世紀中頃)の築造として貴重です。大神神社では崇神天皇皇女豊鍬入姫命(とよすきいりびめ)の墓と伝承され、内行花文鏡が本古墳出土として伝わります。

桜井市立埋蔵文化財センター(さくらいしりつまいぞうぶんかざいせんたー)

桜井市立埋蔵文化財センター(さくらいしりつまいぞうぶんかざいせんたー)

纒向遺跡を中心として市内で発掘された膨大な埋蔵文化財を蔵し、纒向遺跡に関する知見と頭脳が結集した同遺跡研究の中枢です。展示室には国の歴史を考える上で重要な位置を占める貴重な出土遺物や資料が並びます。纒向遺跡を歩いたあとは立ち寄って知識を整理するのに好適。学芸員の丁寧な説明が聞けます。資料図書も頒布しています。開館9:00~4:30 入館料200円、月・火休館。TEL 0744-42-6005

纒向川(まきむくがわ)

纒向川(まきむくがわ)

巻向山を水源とする大和川の支流。纒向遺跡の南限の境界を形成します。古代から氾濫により流路をたびたび変えて遺跡東部の扇状地を造出しました。穴師川とも呼ばれ万葉にも多数詠まれています。また、往時この水流を利用して地場産業である三輪そうめんの粉挽き水車が数多く回っていました。この流れの南側、初瀬川に挟まれた三輪山西麓は纒向時代から神聖域とされていたようで、現在も大神神社の瑞籬郷を形成しています。

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