戦国武将の夢の跡・大和郡山の三城めぐり

  • 戦国武将の夢の跡・大和郡山の三城めぐり
  • 大和郡山には小泉城(片桐城)、筒井城、郡山城の3つも城がありました。小泉地域を治めた小泉家・片桐家、大和を統一した筒井順慶、豊臣政権ナンバー2の豊臣秀長達が、其々の居城で中世から近世に向けて活躍しました。城跡を訪れ戦国武将達の活躍に想いを寄せると胸がワクワク、田園調の景色を見ながら、三つの城を結ぶ道を散策すると心がウキウキ、ロマンを感じるコースです。

小泉神社(こいずみじんじゃ)

小泉神社(こいずみじんじゃ)

祭神は素盞鳴命・誉田別命です。中門・塀で囲まれた一間社春日造り檜皮葺きの本殿は大正時代に重要文化財に指定されました。室町時代に守護神として祀られ地域住民や歴代藩主から篤く崇敬されていました。城の南西方向の高台にあって見張り所の役を果たしていました。祭りの大きい布団太鼓を通す為に、柱の高さを伸ばした山門(伝、小泉城大手門を移築)が珍しい。勇壮な地域を挙げてのお祭りは見る人にも迫力が伝わります。16世紀に豪族小泉四郎左衛門が社殿を改築して以来、今日まで続いている神事は伝統の重みを感じます。

小泉城(陣屋)跡(こいずみじょう(じんや)あと)

小泉城(陣屋)跡(こいずみじょう(じんや)あと)小泉城(陣屋)跡(こいずみじょう(じんや)あと)

小高い丘の城(陣屋)は川・丘陵・湿地帯に囲まれ要害の地として、立地条件に恵まれていました。14世紀頃からこの地で小泉家が活躍していましたが、16世紀に松永久秀に攻められ城も落ち小泉家は滅ぼされました。17世紀に片桐且元(秀吉に仕える)の弟貞隆が大名になり、小泉城跡に陣屋を設け小泉藩主になりました。2代目貞昌は石州流茶道を興し、武士(もののふ)の茶道として4代目将軍家綱の指南役を務めました。石州流は今日まで続いています。小泉城と片桐城の2つの石碑がありますが、時代に合わせた表現で歴史の移り変わりを感じさせます。薙刀池に隣接の高林庵には隅櫓があり、風光明媚でホッとする所です。

金輪院庚申堂(こんりんいんこうしんどう)

金輪院庚申堂(こんりんいんこうしんどう)

2代目貞昌の時、家臣の茶人藤林宗源が建立しました。本尊は青面金剛像で鎌倉時代の作と伝えられ、60年毎の庚申の年に開帳される秘仏です。門前にある一国一宇の石碑のとおり大和国庚申信仰の総道場で、江戸時代には街道筋の市場が盛んでありました。 庚申信仰は60日毎の庚申の日に信者が集まり、悪事を天帝に報告する三尸(さんし)の虫の活動を抑える信仰で、今も人々が庚申の日に集まっています。街道筋には魔除けの為、庚申さんの使いとしての身代わり猿が軒下に吊られています。街並みを散策すると今も続く風習に昔懐かしい感じがします。

慈光院(じこういん)

本尊は釈迦如来坐像です。小泉藩主2代目片桐貞昌が父貞隆の菩提寺として建立しました。城の北東部にあって見張り所の役を果たしていました。書院は史跡名勝指定を受け、庭園は築山・庭石・花・樹木等の枯山水で四季を通じて楽しめます。重要文化財の茶室・書院は石州流にふさわしい構造で落ち着いた雰囲気を与えています。登り坂から入り静寂感豊かな雰囲気で楼門(茨木城から移築)をくぐり抜けると茅葺の建物と庭園に至ります。書院と庭園の一体感が素晴らしく、ここでゆっくりお茶をいただき、心静かに庭園を楽しむのも格別なものです。

筒井城跡(つついじょうあと)

筒井城跡(つついじょうあと)

1982年より発掘調査が行われ、2010年には13次調査が行われました。中世に活躍した筒井家の平城で、城内には城主の館・家臣の屋敷・街道・市場・寺社等を取り込む惣構えで、中世の城としてはかなりの規模でありました。今も外堀や内堀の一部が残っています。筒井順慶は信長の支援を受け大和を統一しました。筒井城は順慶の居城でありましたが、信長の命で筒井城を破却し郡山へ移りました。毎年順慶顕彰会による順慶祭りが催されています。順慶は大和領民を守る為外部からの侵入者には徹底的に戦いましたが、宿敵を滅ぼしても弔う心くばりのある戦国武将でありました。心やさしい大和武士を想いながら、城跡をゆっくり散策しますと順慶さんに親しみを感じます。

千体寺(せんたいじ)

千体寺(せんたいじ)

阿弥陀三尊像を安置する大型厨子は花山院から寄付されたものです。銘木紫檀の木目を漆で表現する紫檀塗りの技法と光輝く貝殻を薄片ではめ込む螺鈿の技法が認められ、紫檀塗り螺鈿厨子は明治時代に重要文化財の指定を受けました。厨子の内側には千体の仏様が配置され、基壇の羽目板には浄土十祖像が描かれています。町内の人々が千体の仏様と重要文化財を守り、千体の仏様が人々をお守りされています。地元の方の地道な活動にスゴイ価値があり、心和む感じがします。

豊浦八幡神社(とようらはちまんじんじゃ)

豊浦八幡神社(とようらはちまんじんじゃ)地蔵堂

祭神は誉田別命(ほむだわけのみこと)・三筒男命(みつつおのみこと)です。本殿は桁行2.7メートル、梁行0.9メートルの小さな社で見世棚造りの社殿2棟を1つの屋根に収めた3間社の流れ造りで珍しい社殿です。細部の絵模様や彫刻は極彩色の装飾で室町時代の作風であります。県指定の文化財に指定されています。今も少数の地域住民の方が新嘗祭・祈年祭・夏祭り等の伝統行事を守っています。北東200メートルの所には「ヤンチャ狸のクロ」が住んでいたと伝わる素朴な地蔵堂があります。いたずら好きの狸のクロが、日頃からかわいがってくれたやさしい村人達への恩に報いるため、得意の「化かし」で戦から村を守ったという昔話が伝わります。狸と村人の人情味ある話でホノボノとした気分になります。

金魚卸売りセンター(きんぎょおろしうりせんたー)

金魚卸売りセンター(きんぎょおろしうりせんたー)

金魚漁業協同組合は3月から11月までの水曜日午後に競り市を行っています。木箱単位で取引される威勢の良い声に頼もしさがあります。競りで行き先の決まった金魚たちに、可愛がってもらえるようにエールを送りたくなります。金魚の出荷量は全国トップであり、金魚の町の印象があります。中央には競りをする小屋があり、周囲の池は競りのない日には釣堀として利用できます。対象魚は鯉・金魚で大物向けの長竿、初心者向けの短竿があります。青空の下で腰をおろすと心までゆっくり気分で楽しめます。

金魚資料館(きんぎょしりょうかん)

金魚資料館(きんぎょしりょうかん)金魚資料館(きんぎょしりょうかん)

泳ぐ図鑑としての金魚資料館です。公的な機関でなく個人的に無料で開放されています。水槽や池には多くの金魚が泳ぎ、展示室には金魚に関する資料がたくさん展示されています。作業場では大きいビニール袋の中でたくさんの金魚が出荷を待っています。南側には金魚観音像があり、金魚に対する心遣いが暖かく伝わってきます。周囲には金魚養殖池がたくさんあり、田園調豊かな環境で金魚がゆったり泳ぎ、この辺りを散策する人々もユッタリ気分になると思います。

大納言塚(だいなごんづか)

大納言塚(だいなごんづか)

兄の秀吉を支え、城造り・街造りの実績を残した豊臣秀長が郡山城で亡くなり、立派な五輪塔の元で眠っています。市指定文化財です。徳川時代になっても位牌寺の春岳院や町民達によりこの塚は守られてきました。今も近隣の人達により白い土壁に囲まれた塚は綺麗に維持されています。秀長の人徳が偲ばれます。秀長の街造りで注目したいのは、封建時代にあって町民に自治権を与えた箱本制度がありました。地方分権が取りざたされている今日の先がけを実施した城主に素晴らしさを感じます。

永慶寺(えいけいじ)

永慶寺(えいけいじ)

本尊は釈迦牟尼仏座像です。黄檗宗で、開基の柳澤吉保公と柳澤家の菩提寺です。甲斐の国で一族の菩提寺として建立され、寺号を吉保公の戒名により龍華山永慶寺と名づけられました。吉里公の甲府から郡山への国替えに伴い、永慶寺もこの地に移りました。柳澤家の信仰の場であり、歴代藩主の庇護もありました。市指定文化財として山門・扁額・吉保公座像・正室定子像他があります。山門は郡山城の城門を移築したものともいわれています。境内には3つの句碑があります。落ち着いた雰囲気の境内を散策すると落ち着いた気分になれます。

柳澤神社(やなぎさわじんじゃ)

柳澤神社(やなぎさわじんじゃ)

祭神は柳澤吉保公です。旧藩士や信者達により創建されました。本殿は春日造りで割り拝殿を設けています。吉保公は小姓組番頭から勤め始め、5代将軍綱吉に認められ城持ち大名になり、更に大老格になり異例の大出世をしました。天守台に隣接し、お城の中央部に位置しています。吉保公にあやかり大活躍の出世や心の出世を願う人・誓う人達がお参りされます。市民には親しみを感じる神社です。

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