奈良盆地を一望・龍王山城跡

  • 奈良盆地を一望・龍王山城跡
  • 奈良盆地の東にそびえる高峰「龍王山(標高586メートル)」の山頂に築かれた、中世を代表する山城です。この山城は当初、15世紀後半に十市郡十市(現在の橿原市十市町)に本拠を構えていた十市氏(とおちうじ)により開かれました。その後、永禄年間にかけて松永久秀の支配下となり、天正6年(1578年)に織田信長の山城破却令が出されるまで、18年間存続しました。龍王山城を題材にした伝説は今も語り継がれ、つわもの達の姿をよみがえらせてくれます。自然と歴史散策、そして山頂(龍王山南城跡)からの大パノラマをお楽しみください。

龍王山(りゅうおうざん)

龍王山(りゅうおうざん)

大和高原と奈良盆地を境する青垣の山なみの中にひときわ高くそびえるのが龍王山です。標高586メートル。頂上からの景色は絶景で、大和三山をはじめ、晴れて澄んだ日には大阪湾や明石海峡大橋まで望むことができます。また、この山の名は山腹に龍王社が祀られていることに由来し、雨乞い信仰の山でもあります。

龍王山城跡〔南城跡・北城跡〕(りゅうおうざんじょうあと〔みなみしろあと・きたしろあと〕)

龍王山城跡〔南城跡・北城跡(りゅうおうざんじょうあと〔みなみしろあと・きたしろあと〕)龍王山城跡〔南城跡・北城跡(りゅうおうざんじょうあと〔みなみしろあと・きたしろあと〕)

中世の豪族・十市遠忠が築いた大和を代表する山城です。城は、南城と北城の2カ所に別れながら、互いに呼応しあって一つの城を形づくる別城一郭の構えで、山頂付近の南城跡の本丸から一段降りた平場には礎石が整然と並び、南北13メートル、東西幅7メートルの建物があったことが調査で分かりました。北城跡付近には、土を盛り上げて作った土手や堤のことをいう土塁(どるい)や、城の戦闘用の出入口を小さく築いた虎口(こぐち)等が残されています。これらは、城を防御する施設であり、城兵には得手、敵兵には逆手となり、城兵が有利となる巧妙な仕組みを見ることができ、戦国時代の面影がしのばれます。

龍王山古墳群(りゅうおうざんこふんぐん)

龍王山古墳群(りゅうおうざんこふんぐん)

行燈山古墳(崇神天皇陵)と渋谷向山古墳(景行天皇陵)の間を龍王山から流れる川が谷を作っています。この谷間に横穴式石室をもつ円墳と墳丘を持たない横穴墓がそれぞれ約300基、合計で600基以上あるといわれています。この古墳群の成立は、6世紀後半から7世紀後半までで、その後8世紀まで追葬が行われていたと推定されます。龍王山の西斜面の中腹から裾部、標高150~450メートルにかけて点在する珍しい古墳群です。

長岳寺(ちょうがくじ)

長岳寺(ちょうがくじ)

天長元年(824)、弘法大師が開いたとされる名刹。わが国最古の玉眼仏である阿弥陀三尊像(重要文化財)が本尊。かつて龍王山城への登山口として武士や僧侶などが滞在していました。今では四季おりおりに美しさを見せる花と文化財の古刹です。そして、ここにも十市遠忠にまつわる話が伝わります。十市遠忠と松永久秀が長岳寺で大将同士の組み討ちとなり、血みどろの戦いの末、本堂の床板には血のわらじ跡が残されました。お寺では、記念するため床板を本堂の天井のひさしに入れ替えたといいます。それからは幽霊がさかさまになって歩くといわれています。長岳寺に残る遠忠の血の足形とさかさ幽霊の話です。

長岳寺奥の院(ちょうがくじおくのいん)

長岳寺奥の院(ちょうがくじおくのいん)

龍王山への登山道の途中に、長岳寺奥の院と呼ばれるところがあり、ここには、鎌倉時代後期に作られた火焔光背を背負い悠然と立つ厚肉彫りの不動明王石像があります。

天理市トレイルセンター(てんりしとれいるせんたー)

天理市トレイルセンター(てんりしとれいるせんたー)天理市トレイルセンター(てんりしとれいるせんたー)

山の辺の道(天理市~桜井市)の中程にある無料休憩・学習施設です。ハイカーや、観光に来られた方々の憩いの場となっていて、ハイキング後一汗流したい時には、6分100円でシャワーが使えます。また、館内では鳥や草花の紹介や黒塚古墳の石室模型(1/4縮小)などがあります。その他、ハイキングルートの紹介や、映像による東海自然歩道沿いの曽爾村や京都府笠置町までの四季の見所も案内しています。春には「植物観察会」、冬には「野鳥観察会」といった自然に楽しむイベントも行っています。

歌人「十市遠忠」(とおちとおただ)

歌人「十市遠忠」(とおちとおただ)歌人「十市遠忠」(とおちとおただ)

室町時代から戦国時代の武将。大和国龍王山城主。最大領域は十市郡・式上郡等大和国北西部を占め、遠く伊賀国までその領域を広げたそうです。推定石高は6万石。遠忠は、武将として優れているばかりでなく、書道、和歌にも通じた文武兼備の文化人で、十市氏の最盛期を築いたとされています。和歌のひとつに、「えにしあれや 長岳寺の 法の水 むすぶ庵も ほど近き身は」と、長岳寺の山門前に歌碑が建っています。また、天理市トレイルセンター入口付近にも 「天下おさまる時を朝夕の 月にも日にも先いのる哉」の歌碑が建っています。歌集として「十市遠忠百首」、「百番自歌合」、「百五十番自歌合」など、数々の名歌集があります。また、藤原定家撰の「拾遺百番歌合」など貴重な歌書の写本など、その創造は今も高く評されています。

ジャンジャン火伝説と首斬地蔵(くびきりじぞう)

ジャンジャン火伝説と首斬地蔵(くびきりじぞう)

室町時代から戦国時代を通じてこの地方で隆盛を誇るものの、悲運の歴史に翻弄され滅んでしまった豪族・十市一族。遠忠の時代にもっとも勢力を伸ばし、龍王山城の完成もこの時期だったと思われます。しかし、隆盛は長く続かず、次の遠勝の時代には大和に進出した松永弾正久秀に攻められ、ついに龍王山城は松永方の手に落ちてしまいます。実際には激しい戦闘もなく開城したようですが、地元には落城にまつわる幾多の悲話が、十市氏や多くの兵士達の怨念として今に伝えられています。今にも雨が降りそうな夏の夜、龍王山に向かい「ホイホイ」と叫ぶと、城跡からジャンジャンと轟音を立てて火の玉が降り注ぎ、叫んだ人を焼き殺してしまうという伝説があります。そして、そのジャンジャン火に襲われた武士が誤って首を斬ったといわれる、お地蔵さまが残っています。

桃尾の滝(もものおのたき)

桃尾の滝(もものおのたき)桃尾の滝(もものおのたき)

高さ約23メートルの岩肌を流れ落ちる美瀑。布留川の上流にあたり、春日断層崖の中では最大の滝といわれています。「布留の滝」と古今和歌集にも詠まれ、古くから親しまれてきました。市街地とは気温が5~6度違うので、夏は避暑地として、訪れる人を楽しませてくれます。また、行者さんの修行の場としても知られ、冬でも薄い衣1枚で一心に滝に打たれる姿を見かけます。滝のなかほどにはお不動さまが、また滝壺の手前左側には不動三尊磨崖仏(鎌倉時代中期)が見守っています。

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