五世紀後半、この三宅の地に小型の前方後円墳が多く築造されました。盆地の中央の低湿地に古墳群が存在するのは非常に珍しく、価値ある古墳群でしたが、噴丘そのものの調査もなく、その内容は全くといってよいほどわかっていません。この古墳群誕生の端緒になったと考えられる川西町の島の山古墳を北端として、南は黒田大塚古墳、東は石見の玉子遺跡までの間には多くの前方後円墳や噴丘が見られます。特に小型の前方後円墳が多く目につきますが、現存している噴丘の多くは削平されて水田になり、その面影はなくなりつつあります。また、完全に削平され消滅したものであっても、古墳があった証拠として水田の畦道が曲線を描いており、前方後円墳の名残りをとどめています。古墳築造当時、大和朝廷が地方の豪族に命じ、但馬、石見、三河の国から使役として人を集め、この低湿地に排水工事やかんがい用水路を作り、稲作を奨励し、盛土に小型前方後円墳を築き、その周りに濠を掘り、稲作の用水確保としたのではないかと考えられます。前方後円墳は王家の墓とも言われており、小型前方後円墳は王家一族の墓であり、この古墳群の中に「オオツカ」や「テンノウヅカ」の名を残すのも、その証でしょうか。