日本美術を愛し、
世界に広めた
アメリカの哲学者
フェノロサが
教えてくれること。
アーネスト・F・フェノロサ(1853~1908年)はアメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者です。明治11年(1878年)に初来日し、当時国内に広がっていた西洋文化崇拝の風潮の中、見捨てられていた日本美術を高く評価し、国内のみならず広く世界に紹介されました。当時の日本の文化財保護行政にも深く関わり、日本美術を現代に残した恩人とも言えます。奈良にも幾度となく足を運んだという記録が残され、特に明治21年(1888年)に奈良市内の淨教寺で「奈良ノ諸君二告グ」と講演したことは有名です。今から130年前にフェノロサがどんな言葉を奈良の人に語ったのか、まずは振り返ってみます。
フェノロサのことば。
淨教寺本堂で120年前に行われた
アーネスト・F・フェノロサ氏の講演より
アジアの仏教美術は、この奈良において、完全なるものに仕上がったのだと、わたくしは信じて疑わないのであります。奈良は、宗教や美術のみならず、ほかにも多くのことで大陸と関係をもってきました。しかし、多くの国は滅亡し、あるいは戦乱を経て、もはや昔の面目を残していないのであります。当時の文物は、日本に存在するのみであります。それらを見たいと思う人は、この奈良に来なければ見ることができないのであります。
奈良は、じつにじつに中央アジアの博物館と称してよいのであります。
奈良のみなさま。奈良の学者たちだけの古代調査場となっていることに甘んじていてよいのでしょうか。
奈良のみなさまこそ、美術復古の指針となり、将来進歩の基本となり、もってしてその益を世上におよぼさなければならないのであります。
この奈良の古物は、ひとり奈良という一地方の宝であるのみならず、じつに日本の宝でもあります。いや、世界においても、もはや得ることのできない貴重な宝なのであります。
ゆえにわたくしは、この古物の保護保存の大任は、すなわち奈良のみなさんが尽くすべき義務であり、その義務はみなさまの大いなる栄誉でもあると思うのであります。この古物の保護保存を考えずして、いたずらに目の前の小利に惑わされてしまっていては、まことにまことに惜しいことであり、それではこの奈良の価値をまったく理解していないのと同じになってしまうのではないかと、わたくしはそう考えるのであります。
フェノロサが講演した
淨教寺さんに
聞いてみました。
九条山 淨教寺
島田 春樹
第26世ご住職
淨教寺は奈良市の中心街、三条通りにある浄土真宗本願寺派の寺院。樹齢三百年余りの境内のソテツは市の指定文化財、山門と掲示板舎は平成17年に国登録文化財となり、市内とは思えない静けさと歴史ある景観に惹かれ多くの観光客が訪れる。
明治21年6月5日 夜9時。
境内にはあふれんばかりの人々。
西洋人が日本美術を
称える言葉に、聴衆は…
フェノロサ氏が明治21年の6月5日にここ淨教寺にて講演をはじめたのは夜9時のこと。本堂だけでは入り切らず、境内の外にまで人が鈴生りになっていたと聞いています。県知事や地元の名士も集まったそうなので、どれほど奈良の人がフェノロサ氏の話に関心と期待を寄せていたのかがうかがえます。
当時の日本人は西洋美術に新しさや輝きを感じていた時代ですので、アメリカ人であるフェノロサ氏がここで伝えた「古くから日本に伝わる美術品がいかに素晴らしいか」という言葉には相当な驚きがあったはずです。
『奈良の宝は日本の、
世界の宝である』
美術品や文化財を未来に
つなぐ意味を
あらためて。
世界の優れた美術品を知り尽くす感性豊かなフェノロサ氏が「奈良の仏像の素晴らしさは世界最高級であり、ギリシャ・ローマの美術品に匹敵する美しさ」と話したことで、聴衆は身近にある仏像や日本画に対して今までに感じたことのない価値を感じたことでしょう。フェノロサ氏がここで講演を行ったのは廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって日本人の手で仏像・仏画が破棄されていく状態をなんとか止めたかった。そして奈良のもつ文化財の素晴らしさを知ってほしかったからです。その効果は絶大で、この後保存活動が目に見えて進んでいったのです。
『奈良は実に、
中央アジアの博物館』
現代人にもこの言葉のもつ意味を
考えてほしい。
この講演会でのフェノロサ氏のメッセージの中で私が好きなのは「奈良は中央アジアの博物館」という言葉です。インドから中国へ、日本へと伝わってきた貴重な仏像が廃仏毀釈によってもまだ奈良に残されていたのは、地域の人々が大切にしてきた祈りの証だと私は思っています。自分たちの生活を守ってくださってきた仏像を廃棄するわけにはいかないと、公民館などにひっそりと保存していたようです。人々の信仰の中で守り続けられてきた仏像や絵画などが今に残っていることの意味を、現代を生きる人にも改めて考えていただきたいと思います。