神とも出会った恋多き王 雄略天皇の伝説を歌とともにめぐる
『古事記』が描く第21代天皇・大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)は、とりわけ多くの逸話に彩られています。皇位に即くまでは、兄・穴穂命(あなほのみこと・安康天皇)の敵討ちに力をかそうとしない二人の兄を殺したり、有力な皇位継承者であった市辺の忍歯王(いちのべのおしはのみこ)を殺すなど、血なまぐさい行動が目立ちます。しかし、天皇となって以降は、残虐な行動はとたんに影を潜め、神との遭遇や恋の話などがほのぼのとした調子で語られます。このコースでは、皇位について以降の、大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)の人間味あふれる伝説ゆかりの地を、歌とともにたどってみましょう。
葛城山に狩りに出かけた大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)一行。そのとき、着ている衣服も人数も自分達とまったく同じ行列と出会いました。「何者だ」と訪ねると、同じ言葉をそのまま返してきます。怒った大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)が、弓矢を構えて名前を聞くと、「葛城の一言主大神(かづらきのひとことぬしのおおかみ)ぞ」と答えました。大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)は、無礼を詫び、大御刀(おおみたち)、弓矢、衣服などを献上します。喜んだ一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)は、天皇の一行を、長谷の山の入口まで送ってくれました。人代について語られる「下つ巻」の一節にも関わらず、天皇が神と出会い、言葉だけでなく心も交わした様子が描かれ、とても印象に残る場面です。
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葛城一言主神社 かつらぎひとことぬしじんじゃ |
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大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)一行と出会ったとき、「一言で悪事も善事も言い放つ神」と名乗った葛城の一言主大神(かづらきのひとことぬしのおおかみ)を祀っています。今では、「願いを一言だけ叶えてくれる」神様とされ、「いちごんさん」とも呼ばれています。
◆御所市森脇432
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高天彦神社 たかまひこじんじゃ |
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『古事記』に、天と地が分かれてすぐに生まれた神と記されている高御産巣日神(たかみむすひのかみ)が祭神です。その孫が、高天原から葦原中国(あしはらのなかつくに)へ天降った邇邇芸命(ににぎのみこと)。神社へと続く古い杉並木の参道は神々しい雰囲気です。 ◆御所市高天 |
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高鴨神社 たかかもじんじゃ |
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大和の豪族のなかでも名門とされる鴨の一族の発祥の地。その鴨族が守護神として祀った高鴨神社は、日本でも最古の社のひとつ。全国の賀茂社の総社です。毎年4月下旬~5月初旬は日本さくら草約2200鉢を展示しています。 ◆御所市鴨神1110 |
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葛城古道 かつらぎこどう |
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葛城一帯は、古代大きな権力を持っていた葛城氏の根拠地。その権力の大きさを物語る巨大な古墳や古社をたどることができる道。大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)が葛城の一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)と出会った葛城山を眺めながら歩いてみては。 ◆御所市 |
恋多き大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)のエピソードのひとつ。大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)は、美和河(みわがわ)のほとりで衣を洗う乙女に出会います。美しさに目を止め、名を問い、後日必ず宮に迎えると伝えました。乙女の名前は引田部の赤猪子(ひけたべのあかいこ)。結局、迎えが来ることなく80年間待ち続けた赤猪子(あかいこ)は、意を決し、大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)がいらっしゃる宮を訪ねました。
乙女との約束をすっかり忘れていた大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)でしたが、ずっと待ち続けた真心に感じ入り、
引田の若栗栖原(わかくるすばら) 若くへに 率寝(いね)てましもの 老いにけるかも(引田の若い栗林。そのように若いときに、おまえと共寝すればよかったものを。今はすっかり年老いてしまったよ)
などの歌を贈り、赤猪子(あかいこ)も
日下江(くさかえ)の 入江の蓮(はちす) 花蓮(はなばちす) 身の盛り人 羨(とも)しきろかも
(日下江の入江の蓮。美しく咲き誇っているその蓮の花。そのように若い盛りの人がうらやましいこと。)
と涙ながらに詠うのでした。(歌の現代語訳は、『古事記(下)』講談社学術文庫より)
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大神神社 おおみわじんじゃ |
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三輪山にある、日本最古の神社のひとつ。大物主神(おおものぬしのかみ)が祀られています。大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)と引田部の赤猪子(ひけたべのあかいこ)が出会った美和河は、初瀬川の下流で、三輪山あたりとされています。
◆桜井市三輪
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白山神社 はくさんじんじゃ |
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白山比咩命(しらやまひめのみこと)と菅原道真(すがわらのみちざね)を祀ります。神社の付近が、大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)の宮「泊瀬朝倉宮」(『古事記』では「長谷の朝倉宮」)の候補地のひとつとされます。年老いて訪ねてきた赤猪子(あかいこ)もこのあたりを歩いたかも。また、『万葉集』が大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)の歌(籠もよみ籠もち…)から始まることから「萬葉集発燿讃仰碑(まんようしゅうはつようさんぎょうひ)」と歌碑も建っています。ちなみにこの歌も、若菜を摘む娘に求婚する内容です。
◆桜井市黒崎339
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海柘榴市跡 つばいちあと |
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古代の市が立った場所で、男女が集まり、歌で思いを伝え合う歌垣も行われました。歌垣といえば、大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)が殺した市辺の忍歯王(いちのべのおしはのみこ)の子・袁祁命(をけのみこと・のちの顕宗天皇)の話が『古事記』に出てきます。袁祁命(をけのみこと)が妻にしたいと思っていた女性・大魚(おおうお)の手を、家臣の志毘王(しびのおみ)がとり、ふたりの男は歌垣で激しい恋の火花を散らすのでした。 ◆桜井市金屋 |
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久延彦神社 くえびこじんじゃ |
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崩彦(くえびこ)が祀られている神社。崩彦(くえびこ)は、田んぼの中のカカシ。動けないが、天下のことをすべて知っているとされます。大国主神(おおくにぬしのかみ)が、出雲の岬で出会った神の名前を神々に尋ねたとき、誰も答えられなかった小名毘古那神(すくなびこなのかみ)の名を知っていたのは、崩彦(くえびこ)だけでした。
◆桜井市三輪
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春日神社 かすがじんじゃ |
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天児屋命(あめのこやねのみこと)を祀る神社。この神社の前の田畑から、縄文晩期から飛鳥・奈良時代にいたる遺跡が発掘されました。5世紀ごろの大型建物跡や柵列などがあり、大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)の泊瀬朝倉宮との関係が指摘されています。
◆桜井市脇本335
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十二柱神社 じゅうにはしらじんじゃ |
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境内に小長谷若雀命(おはつせのわかさざきのみこと・武烈天皇)を祀る社があり、長谷の列木宮(はつせのなみきのみや)の伝承地です。また、當麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとった出雲の野見宿禰(のみのすくね)ゆかりの五輪塔が立っています。
◆桜井市出雲
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長谷山口坐神社 はせやまぐちにいますじんじゃ |
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葛城山で大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)一行が出会った一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)は、大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)一行が宮に帰る際、この地まで見送ったと『古事記』に記されています。
◆桜井市初瀬
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長谷寺 はせでら |
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長谷寺は、朱鳥元年(686)、道明上人が天武天皇のために銅板法華説相図を安置したことに始まると伝えられています。周辺は「こもりくの泊瀬山」として『万葉集』にも詠われており、現在も境内には四季折々にさまざまな花が咲き誇ります。
◆桜井市初瀬731-1
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今度は、大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)が吉野の宮に行幸したときの恋の逸話。吉野川のほとりで美しい乙女と出会い、すぐに結ばれました。その後、大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)は、再び吉野の乙女の家を訪れ、舞いを所望します。美しい舞に満足し、
呉床座(あぐらざ)の 神の御手もち 弾く琴に 舞する女(おみな) 常世(とこよ)にもがも
(呉床(あぐら)にすわっておいでになる神の御手で弾く琴にあわせて舞う少女よ。その美しい姿は、永遠であってほしいものだ。)
と詠います。
この吉野の宮付近と考えられている阿岐豆野(あきずの=吉野の宮の付近と考えられる)で、もうひとつ紹介したい逸話があります。
狩りにでかけた大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)は腕をアブに噛まれてしまいます。すると、トンボが飛んできて、そのアブをくわえて飛び去りました。そこで大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)は、
み吉野の 袁牟漏が嶽(おむろがたけ)に 猪鹿(しし)伏すと 誰れぞ 大前に奏(もう)す やすみしし 我が大君の 猪鹿待つと 呉床に坐(いま)し 白栲(しろたえ)の 衣手(そで)著(き)そなふ 手腓(たこむら)に 虻(あむ)かきつき その虻を 蜻蛉(あきず)早咋(はやぐ)ひ かくの如(ごと) 名に負はむと そらみつ 倭(やまと)の国を 蜻蛉島(あきずしま)とふ
※虻=『古事記』では、虫へんに 国構えの中に又
(吉野のおむろが嶽に猪や鹿が潜んでいると、だれが天皇の御前に申し上げたのか。(やすみしし)わが大君がそこで獣を待とうと呉床(あぐら)におすわりになり、(しろたへの)袖もきちんと着ている腕の内側のふくらみに、虻が食いつき、その虻をとんぼがさっそくくわえて行き、このように手柄を立てたとんぼを名につけようと、(そらみつ)大和の国を蜻蛉島(あきずしま)というのだ。)
と、歌でトンボを称えたのです。日本は、トンボの名を冠した蜻蛉島とも呼ばれます。トンボが大変縁起のよい虫と考えられていたことがこの逸話からもうかがえます。(歌の現代語訳は、『古事記(下)』講談社学術文庫より)
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宮滝遺跡 みやたきいせき |
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大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)も訪れた吉野の宮があったとされる場所。吉野川の流れ、川から望む美しい山々は、古くから多くの天皇に特別な地として愛されました。
◆吉野郡吉野町宮滝
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蜻蛉の滝 せいれいのたき |
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大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)の腕をかんだアブを退治したトンボの逸話にちなみ、蜻蛉の滝と名づけられたとされます。
◆吉野郡川上村西河
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吉野歴史資料館 よしのれきししりょうかん |
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『大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)も吉野の宮に行幸したと記されています。古代の宮滝は、吉野の中心ともいえる重要な場所で、吉野の宮は宮滝周辺にあったと考えられています。資料館では、周辺で出土した、縄文時代から奈良時代までの遺物などを展示。 ◆吉野町宮滝348 |
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