古事記編 歴史ふれあい旅2 女帝たちの『古事記』その想いに寄り添う
『古事記』編さんは、その序文によると天武天皇の願いによって始まりました。未完のまま天武天皇が亡くなると、皇后だった持統天皇に引き継がれたようです。さらに女帝・元明天皇によって再開され、ついに完成。ここでは、古事記編さんに関わる二人の女帝と、『古事記』に登場する女帝ゆかりの地をめぐり、女性のまなざしから『古事記』にふれてみましょう。
第43代元明天皇は天智天皇の第4皇女で、持統天皇は異母姉妹であると同時に姑にあたります。息子である文武天皇が死去したため、孫の首皇子(おびとのみこ・後の聖武天皇)が成長するまで政務を務めました。『古事記』は、元明天皇の舅である天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)に昔の出来事を誦み習わせ、太安萬侶(おおのやすまろ)が書き記し、元明天皇の時代に完成しました。『古事記』の序文は太安万侶が元明天皇に献じた文章です。
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平城宮跡 へいじょうきゅうせき |
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平城京は、和銅3年(710)、元明天皇が遷都した都。唐の長安にならって造られ、約5〜10万人の人が暮らしたとされます。『古事記』は和銅5年、元明天皇に太安萬侶(おおのやすまろ)から献上されました。
◆奈良市佐紀町
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賣太神社 めたじんじゃ |
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稗田阿礼(ひえだのあれ)をまつる神社。稗田阿礼は記憶力に優れ、歴代天皇の系譜や昔からの伝承を暗唱しました。太安萬侶(おおのやすまろ)がこれを記録し、『古事記』が誕生しました。その記憶力にあやかりたいと、現在では学問の神さまとして信仰を集めています。
◆大和郡山市稗田町319
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多神社 おおじんじゃ |
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正しくは多坐彌志理都比古神社(おおにいますみしりつひこじんじゃ)といい、一般には多神社と呼ばれています。神八井耳命(かむやいみみのみこと)をまつる神社で、太安萬侶(おおのやすまろ)はこの地を治める多氏の出身です。
◆磯城郡田原本町多569
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太安萬侶の墓 おおのやすまろのはか |
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『古事記』を編さんした太安萬侶(おおのやすまろ)の墓は、奈良市東部の茶畑の中で偶然発見されました。火葬された骨とともに墓誌が発掘され、安萬侶の死亡年月日、生前住んでいたところや位が明らかになりました。 ◆奈良市此瀬町 |
持統天皇は天武天皇の皇后で、天武天皇の生前は天皇を補佐して共に国を治めました。天武天皇は記憶力にすぐれた稗田阿礼に古くからの伝承を記憶させ、『古事記』編さんの糸口をつくりました。天武天皇の死後、皇太子の草壁皇子(くさかべのみこ)が病死したため、持統天皇は第41代天皇として政を行いました。また、藤原京を造営し、遷都しました。
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藤原宮跡 ふじわらきゅうせき |
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日本ではじめての本格的な都城。天武天皇が計画し、妻の持統天皇が遷都を成し遂げたとされます。大和三山(香具山、畝傍山、耳成山)に囲まれています。 現在は季節ごとにコスモスやハスなどの美しい花が咲きほこり女帝の宮跡を感じることができる場所となっています。
◆橿原市醍醐町
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天武・持統天皇陵 てんむ・じとうてんのうりょう |
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八角形の円墳で、持統天皇と夫の天武天皇が共に葬られたとされています。持統天皇は死後火葬されましたが、火葬された天皇は持統天皇が最初だといいます。
◆高市郡明日香村野口
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宮滝 みやたき |
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巨大な岩の間を清流が流れる吉野川の名所。古くから人々に愛され、『万葉集』にもよまれています。天武・持統天皇が度々訪れた吉野の宮跡とされる宮滝遺跡があります。
◆吉野郡吉野町宮滝
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本薬師寺跡 もとやくしじあと |
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天武天皇が持統天皇の病気平癒を祈願して藤原京で造営をはじめ、天武天皇の死後、持統天皇が引き継いで完成させました。後に藤原京から平城京に移り、薬師寺となりました。本薬師寺跡には、塔の礎石などが残っています。
◆橿原市城殿町
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薬師寺 やくしじ |
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天武天皇が発願した藤原京の薬師寺が平城京に移って現在に至ります。奈良時代に建立された東塔が残っています(修理中〜平成30年度予定)。奈良時代に描かれた国宝の吉祥天女画像は、聖武天皇の皇后、光明皇后の姿をうつしたものともいわれます。
◆奈良市西ノ京町457
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日本ではじめての女性天皇、第33代天皇・豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと・推古天皇)は、『古事記』の最後に記載されている天皇です。摂政となった聖徳太子(しょうとくたいし)により、十七条憲法の制定や、仏教を広めるなど、積極的な政治が行われた時代です。
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古宮遺跡/小墾田宮推定地 ふるみやいせき/おはりだのみやすいていち |
古宮遺跡は、建物跡などが発掘されたことから推古天皇の小墾田宮跡とされてきました。しかし、昭和62年(1987)に雷丘東方遺跡から「小治田宮」と書かれた土器が発掘されたため、雷丘東方遺跡が小墾田宮跡だという説が有力になりました。
◆高市郡明日香村豊浦
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皇極・斉明天皇 第35代皇極天皇は夫の舒明天皇の死後、即位しました。乙巳の変の後、弟の孝徳天皇に皇位を譲りましたが、孝徳天皇の死去に伴い再び即位し、第37代斉明天皇となりました。 |
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伝飛鳥板蓋宮跡 でんあすかいたぶきのみやあと |
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皇極天皇の宮跡で、この地で中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蘇我氏をうち、乙巳の変を成し遂げました。複数の遺跡が重なっていて、上層は天武天皇の飛鳥浄御原宮跡の可能性が高いとされています。 ◆高市郡明日香村岡
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飛鳥水落遺跡 あすかみずおちいせき |
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斉明天皇の時代に、中国からの技術を元に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が水時計を造らせたと伝えられています。北側の石神遺跡からは石畳の広場が出土しており、一帯は斉明天皇の迎賓館的な役割を果たす場所だったと考えられています。 ◆高市郡明日香村飛鳥
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酒船石遺跡 さかふねいしいせき |
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平成12年(2000)に亀形石造物や石敷きの広場、階段状の石垣が発掘され、南側の丘の上にある酒船石と合わせて、一帯でなんらかの祭祀が行われていたと考えられます。斉明天皇の両槻宮(ふたつきのみや)との関連が指摘されています。 ◆高市郡明日香村岡
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飯豊青命(いいとよあおのみこと) 第22代清寧天皇の死後、第23代顕宗天皇が即位するまでの間、政を行ったと記録されています。『扶桑略記』では天皇と記されており、女帝の先駆的な存在とも考えられています。 |
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角刺神社 つぬさしじんじゃ |
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飯豊青命(いいとよあおのみこと)をまつる神社。飯豊青命いいとよあおのみこと)は履中天皇の子あるいは孫と伝わっています。清寧天皇には子がいませんでしたが、雄略天皇に父を殺された皇位継承権をもつ兄弟が逃げ隠れていました。兄弟は皇位を譲り合い、後に顕宗天皇、仁賢天皇として即位しました。 ◆葛城市忍海
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奈良県立万葉文化館 ならけんりつまんようぶんかかん |
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『万葉集』を軸とした古代文化に関する総合文化拠点。ジオラマや映像などで万葉の時代や社会を紹介するとともに、万葉日本画の展示や万葉図書、情報室など『万葉集』をはじめ古代文化に関する情報がそろっています。 ◆高市郡明日香村飛鳥10
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甘樫丘 あまかしのおか |
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明日香村を見下ろす小高い丘から、飛鳥の風景や大和三山、藤原宮跡まで眺めることができます。蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)らが邸宅をかまえたと伝えられています。 ◆高市郡明日香村豊浦
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