記紀・万葉講座

「万葉集に詠われる遙か紀伊国へ至る道~紀路」

記紀・万葉リレートーク 第8回 高取町

2013年2月9日(土) 10:30~
会場・高取町 リベルテホール

講師・京都教育大学名誉教授 和田 萃(わだ・あつむ)氏
演題・「万葉集に詠われる遙か紀伊国へ至る道~紀路」

チラシにリンク


 

概況

平成25年2月9日に、高取町リベルテホールにて、第8回目の「記紀・万葉リレートーク」を開催しました。
午後から、たかとり観光ボランティアガイドの会によるウォーキングイベントが実施されるため、10時30分からの開演となりましたが、たくさんの来場がありました。高取町長の挨拶の後、「万葉集に詠われる遙か紀伊国へ至る道~紀路」と題し、京都教育大学名誉教授 和田 萃氏にお話しいただきました。
多くの来場者が紀路にまつわる歴史に思いを馳せるように熱心に耳を傾けていました。


 受付には長い行列ができた/高取町長の挨拶

 

講演の概要

 「紀路は大和から紀伊(紀ノ川河口)へ至る道を指し、すでに5世紀には敷設されていた。スタートラインは飛鳥駅付近とされるが、もともとは橿原神宮前駅の南の(古代には軽市と呼ばれる大きな市が立った)、見瀬丸山古墳のあたりが出発点であったと考えられる。5世紀の紀路は市尾から西に向かい、金剛山麓を通ったが、6世紀になると巨勢氏が非常に大きな力を持つようになり、巨瀬谷を通るルートが主流になった。古代の紀路の面影がよく残っているのは、近鉄飛鳥駅からリベルテホールのすぐ西や市尾、あるいは近鉄吉野線の吉野口の駅やJR北宇智の駅から五條のあたりである。
 紀路の重要な役割の1つに、紀ノ川河口から奈良盆地の中央部へのモノの運搬が考えられる。例えば阿蘇ピンク石という凝灰岩は、1つのルートとして九州の宇土半島から紀ノ川河口に運ばれ、金屋の石仏、慶雲寺の石塔、竹田皇子の石棺などに使用された。欽明天皇の時代に百済から仏教が伝えられるが、仏教伝来のルートも、その後の国家の主要な港である難波津からではなくて、この紀ノ川から紀路のルートを通って欽明天皇の磯城嶋金刺宮へ運ばれて来た可能性が強い。それだけに5世紀後半から6世紀前半にかけて、まことに重要な道筋であったと言ってもいいかと思う。


 会場の様子/多くの来場者に語る和田氏

紀路は、例えば斉明天皇・聖武天皇・称徳天皇が紀伊国へ行幸した際のルートとして使われていたなど、『万葉 集』にも歌われ、有馬皇子が謀反の疑いで拘禁されて、紀伊国の紀温湯(きのゆ)へ送られる(護送には紀路が使 われている)、あの有名な有馬皇子の事件とも関わりがある。現在、紀路は高野街道と称されているが、今なお残 っており、こうした歴史に思いを馳せ、様々な景観を楽しみながら歩くのも格別である」。



【講師プロフィール】
和田 萃(わだ・あつむ)/京都教育大学名誉教授
1944年中国・東北部の遼陽市に生まれる。
1972年京都大学大学院文学研究科博士課程修了。京都教育大学教授。
2007年定年退官。
日本古代史を専門とし、『古事記』や『日本書紀』などの史料および地中から発見される木簡を用いて3~8世紀の日本古代史の研究を行っている。同時に奈良県立橿原考古学研究所の指導研究員としても活躍。考古学の研究成果も取り入れて研究を進め、多方面で活躍中。奈良県高取町在住。