「古事記からの伝言。~はじまりの地・奈良・あらたな始まり~」
記紀・万葉プロジェクト/古事記完成1300年記念シンポジウム
2012年9月9日
会場・橿原文化会館大ホール
チラシにリンク
プログラム
第1部 |
●開会の挨拶
奈良県知事 荒井正吾
●ビデオメッセージ「古事記よみ語り コノハナサクヤ姫の物語」
女優・國學院大學客員教授 浅野温子氏(映像出演)
●講演
洋画家・大阪芸術大学教授・東京藝術大学名誉教授 絹谷幸二氏 |
第2部 |
●ビデオメッセージ「ゆかりの地は今」
明日香村長 森川裕一氏
橿原市長 森下豊氏
葛城市長 山下和弥氏
御所市長 東川裕氏
大神神社(桜井市)宮司 鈴木寛治氏
多神社(田原本町)宮司 多忠記氏
石上神宮(天理市)宮司 森正光氏
賣太神社(大和郡山市)宮司 藤本保文氏
●鼎談「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト)東遷にみる郷土の息吹」
元NHKエグゼクティブアナウンサー・熊野神社宮司 宮田修氏
奈良県立橿原考古学研究所所長 菅谷文則氏
神戸大学工学研究科教授 黒田龍二氏
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本シンポジウムは、「記紀・万葉プロジェクト」(2012年~2020年)の一角、『古事記』完成1300年を記念するイベントとして開催された。
第1部
開会の挨拶
開会に当たり、『古事記』編纂の地・奈良を代表して、荒井正吾・奈良県知事が挨拶。
「記紀・万葉プロジェクト」の趣旨説明から、近年、関連書籍が数多く出版され身近になってきた『古事記』について、「今日の私たちに通ずる数々のメッセージを有し、秘められた大きなパワーを感じる」と所見を述べた。
さらに、『古事記』の世界を様々な角度で楽しめるイベントを展開していきたいとしながら、これに集う多くの人々が『古事記』への理解を深め、地域の人々との触れ合いを育む中で、奈良の振興に資するものとなることを願った。
荒井正吾・奈良県知事
ビデオメッセージ「古事記よみ語り コノハナサクヤ姫の物語」
続いて、國學院大學客員教授で女優の浅野温子さんによる「古事記よみ語り コノハナサクヤ姫の物語」が、本シンポジウムへのメッセージと共に上映された。
浅野温子氏
講演
洋画家で大阪芸術大学教授と東京藝術大学名誉教授を務める絹谷幸二氏が登壇。ルネサンス期に盛んに用いられた古代の画法・フレスコ画(アフレスコ)の第一人者である同氏は、古(いにしえ)が色濃く息づく奈良の地に生を受けたことが、油絵ではなくフレスコ画に魅かれた大きな要因であろうと切り出した。
現在、「記紀・万葉」をテーマとする作品展の準備を進めていることや、かねてから思い入れの深かった『古事記』に携わる喜びに触れながら、「岩の祠(ほこら)のある所、『古事記』の時代以前の先祖が住んだ所、それが必ず神様が住む所になっている」「神武東遷は、火山噴火や台風などに苛まれた南九州の人々が新天地を求め、自然災害が少なく水の豊かな奈良の地にたどりつき、稲作を伝えたという出来事」「光明皇后は平城の都の危機管理を考え、万一の際に、首都機能の一部を山形に移すべく行基に命じて準備を整えていた」など、天孫降臨から神武東遷、さらにはその先に至る様々な出来事や背景の考察を、独自の取材や考究によって得られた解釈をもとに披露した。
絹谷幸二氏
第2部
ビデオメッセージ「ゆかりの地は今」
『古事記』ゆかりの地の首長や宮司が、同地の魅力を紹介するビデオメッセージ「ゆかりの地は今」を上映。
鼎談
続いて、菅谷文則氏・黒田龍二氏・宮田修氏の三氏による鼎談が行われた。テーマは「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト)東遷に見る郷土の息吹」。初代・神武天皇が九州から瀬戸内海を経て難波へゆき、そこでナガスネヒコの抵抗に遭い、熊野から北上、橿原の地で即位されるまでの行程を辿るものであった。
主に、黒田氏は神社建築の専門家、菅谷氏は考古学者、宮田氏は神職としての視点で見解を述べ、元NHKアナウンサーの宮田氏がこれらをリードした。
宮田修氏
まず、『古事記』との出会いについて、とりわけその難解さに苦労したことを回顧する菅谷、宮田両氏に対して、黒田氏は纏向遺跡から天皇の御殿(みやらか)が発掘されたことから、『古事記』の記載が事実であった点に感激したことを挙げた。
「神武天皇御一行が、熊野に到着後に突如毒気に当てられ、皆倒れてしまった」という記載について、菅谷氏は「船酔いではなかったか」と指摘。「内海用の船で難波までやって来たものの、思いもよらぬ抵抗に遭い、仕方なく黒潮(外海)に乗って航海したのがこたえたのでは」との見解に、宮田氏は納得しきりの様子であった。
熊野から吉野川の最上流まで、100キ口以上の道のりに地名が一つも出てこない点に関して、菅谷氏は「十津川か熊野川に沿ってさかのぼったという川筋説と、修験道の道を通ったという山筋説がある。近代以前は、川筋よりも山筋を通ると考えるのが地理学の主流」と紹介。「熊野に一つの文化があり、また大和にも何らかの文化があって、これを結びたいと考えた。そこで、ガイドのようなものとして鳥が出てきたのかも」と推測した。
次いで宮田氏は、熊野で倒れた一行を救う「タカクラジ」という一本の剣に言及。三種の神器の一つであり、他の二つ以上に重要な意味を持つとも言われる、この剣と関係の深い神社として、石上神宮の名を挙げた。
「建築という観点からこの神社をどう見るか」との問いに対し、黒田氏は、同社は近代まで本殿を持たない大神神社同様の古社である点や、草薙の剣を有するとされる熱田神宮も、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)をご神体とする同社と共通性を持つ構造の神社であった点、さらに摂社の出雲建雄神社の拝殿について解説した。
神武天皇一行を先導したという「八咫烏」について、菅谷氏は「黒潮に乗って飛んでくる大鳥・アホウドリではないか」との見解。日本への渡航に失敗して漂流する鑑真和上を海南島の岸へと導いたというエピソードを紹介しながら、「太安万侶がこの鳥を八咫烏としたのかもしれない」とした。
菅谷文則氏
ここで『古事記』からは少し離れ、黒田氏より神社建築についての解説がなされた。
奈良時代以前は、切妻造りで直線的な屋根構成を持つものとして、出雲大社に代表される「大社造」、伊勢神宮などの「神明造」、住吉大社の「住吉造」があり、次いで奈良から平安にかけて、官社制(国家が神社を全国的に掌握する政策)に基づく本殿形式として、春日大社に代表される「春日造」、上賀茂神社などの「流造」があることを説明。
その上で、「とりわけ奈良県下に春日造が多く見られるのは、官社制が関係しているのではないか」と私見を述べた。
これに対し、菅谷氏は「官社制施行の前後、春日大社では自然神を祀るなどして、本殿は存在していなかったのではないか」と指摘、「官社制の影響というよりも、勧請による分社化が繰り返される中で、本社に似せたものとして同様の本殿形式が広がっていったと理解したい」とした。
最後に黒田氏より、神社建築を見る上で「出来るだけ伝統あるお祭りを見に行くこと。その際に周辺の景観や建築物の配置、さらには本殿の形式に目を配ってみては」とアドバイスがあった。
『古事記』に戻って最初の考察は、「簗を使って魚を獲るニエモツッコという人物との出会い」について。菅谷氏は「簗には竹が必要。古墳時代以前に竹がほとんどなかった奈良の地に、南九州からの移住民が竹をもたらし、笊や魚籠を作る技術をもたらした。そういう祖先伝承の一端が描かれているのでは」との見解。
続いて、「尾の生えた人に出会う」という場面については「頭に鹿の皮や角を乗せ、尻に動物の尻尾を切ってぶら下げた狩猟民ではないか」と推測。「彼らが井戸の中から出てきて、光っていた」との記載は、「井戸を、岩の裂け目あるいは竪穴と解釈し、そこから出てきた人が、太陽の反射で光るものを持っていたのでは」と述べた。
黒田龍二氏
次いで「この尾の生えた人の子孫とされるのが、吉野の土着民・国栖(くず)族である」と菅谷氏より解説。自身はその末裔であると告白し、ルーツが吉野町南国栖の旧家にあることを説明、「だから私には尾てい骨が3本ほど生えている」などと冗談を交えながら話した。
これを受け、宮田氏は「奈良の方々は非常に高い確率で『古事記』の時代の人々と繋がっている。連綿と続く命の繋がりの上に今の自分たちがあり、時に思いをはせることは、楽しく、喜ばしい」と述べた。
「最後に神武天皇一行に立ちはだかるウカシ兄弟」について、菅谷氏は「兄のエウカシは反対派、弟のオトウカシは賛成派。最終的に二人とも亡くなり、この勢力は無くなるのだが、宇陀には「宇賀志」など、ゆかりの地名が残っている」と解説した。
『古事記』の全体的な解釈について、菅谷氏は「熊野や宇陀、もっと広く言うと南九州や瀬戸内、という文化圏に連合する必要が生まれ、その中で共通認識としての歴史が求められた、ということではないか。そんな中で、殺伐とした非道な行いが見当たらないのは、この建国神話の大きな特色の一つ」との見解。
宮田氏は、「完膚なきまでに相手をやっつけない、日本人の大らかさの息吹のようなものが感じられる」と続け、黒田氏は「作り話だという戦後史観で、とかく『古事記』や『日本書紀』をとらえがちであったが、先だっての纏向遺跡の発掘から、記紀の記述を基にして、神社建築の成立を説明できると気づいた時は、実は本当のことも多く混じっているのではないか、と思い直すようになった」などと述べた。
盛り上がりを見せる鼎談
さらに話は、現在菅谷氏が携わる御所市の水田遺跡発掘についての説明、黒田氏が取り組む桜井市の纏向遺跡研究の解説へと広がり、終わりは、本シンポジウムをリードした宮田氏の「今こそ、我々の祖先が残してくれた『古事記』『日本書紀』に学び、今を見つめる時ではないか」との問いかけをもって幕を閉じた。