葛城の山と人の交流
日本書紀を語る講演会 第5回 御所市
2017年1月14日(土)13時00分~14時30分
会場・御所市文化ホール(アザレアホール)
講師・奈良文化財研究所主任研究員 馬場基(ばばはじめ)氏
演題・葛城の山と人の交流
講演の内容
私の専門とする時代は記紀に書かれている時代より200年ほど下るので、本日の講演は、少し別の視点から葛城氏の話題を中心に日本書紀の魅力を紹介していきたい。
葛城氏は宋書倭国伝に記されている倭の五王の時代、記紀では第15代応神天皇~第21代雄略天皇の時代の氏族で大王家と婚姻を結ぶことで勢力をもった一族である。宋書倭国伝の倭王武(雄略天皇とされる)の上奏文によると、東西の多くの国を平定し朝鮮半島の平定にも着手していると記されている。しかし、葛城氏の祖、葛城襲津彦が活躍した、応神天皇時代の日本書紀に記されている地名を確認すると、ほとんど畿内に治まる。なかでも、山背の地域、淀川や木津川、巨椋池など、川沿いの地名が主であり、播磨や吉備の海沿いの地名もあるが、ほとんどが、大阪湾の沿岸地域または淀川添いに限定される。また、中国で発見された好太王碑の碑文にも、倭と朝鮮半島との交戦の記録が記されているが、同時代とされる第16代仁徳天皇の頃の日本書紀の地名は、やはり、ほとんどが畿内に収まる。これの意味するところは、おそらくその範囲(大阪湾とその周辺)が、当時の天皇家が基盤とした地域、影響が届く範囲としてみることができるのである。
記紀に登場する磐之姫と仁徳天皇の二人の説話の中で磐之姫の移動した経路も紀伊(熊野)、難波、山背(木津川)という畿内に収まる。しかし磐之姫の父である葛城襲津彦について、日本書紀が記されている記述のほとんどは朝鮮半島絡みの事績である。葛城氏の本拠地は極楽寺ヒビキ遺跡など葛城山の山裾一体であるとされているが、なぜ、このような山間地域の出身である襲津彦が朝鮮半島との外交担当になりえたのだろうか。
葛城氏の勢力圏内にある高鴨神社の近くから、南に伸びる古墳時代の道路が発掘された。その道は今の五條市、紀ノ川に繋がり、川沿いに下ると和歌山県につながる。そして、和歌山市の北側に拠点を持つ紀氏は、葛城氏と同じく武内宿禰を祖とするという共通点がある。さらに、西の淡路島には「海人(あま)」と呼ばれる大王家とつながりをもつ海の民がいた点などから、おそらく葛城氏は紀ノ川を通じて紀伊半島や南海道地域とも繋がりをもっていたのであろう。淡路島に近い兵庫県の明石や加古川などの港もあるが、当時の大阪平野が陸路に不向きな、ぬかるんだ土壌で通行が非常に困難であったことに対し、紀ノ川の水路が利用出来るという点においても、紀伊半島が一番適した、海への入り口であった。奈良時代には、紀伊国からの贄は海部郡(和歌山県の北部沿岸)と牟呂郡(和歌山県南部沿岸)の2か所から送られているが、これらの地域は志摩などの東海地域ともつながりを持っており、葛城氏の時代にも紀伊半島の港は南海道に加え、東海道へ続くルートも存在していたと考えられる。加えて、紀伊国は、名前の由来が木の国であったとされるほど木材が豊富にある。つまり、葛城氏は海へと繋がる要衝、さらに舟を作る材料とそれを乗りこなす技術者(海人)を取り込んでいたのである。大阪の難波津は第16代仁徳天皇の時代にようやく整備が始まり、まだ、港としては機能していなかったであろう。住吉津の詳細は明らかになっていないが、襲津彦が活躍した第15代応神時代以前は、紀伊半島の港こそが主流の玄関口であり、そこをおさえている葛城氏(襲津彦)だからこそ、朝鮮半島との外交を担当するに足る人物なのである。
日本書紀の斉明天皇元年(680年)には竜に乗った者が葛城山から生駒山に向かい、その後住吉に行き、そのまま西に飛んで行ったという記述がある。当然、住吉の西には大阪湾が広がる。海の民が海上で方角を知る方法は、おそらく山を見て方角を確認する山アテを行っていた。住吉津(大阪湾)を拠点としている海の民が山アテをする場合、大阪湾から確認できる山は生駒山や葛城山である。つまり、葛城山ひいては葛城氏は、大和盆地から海に向かう人々の信仰に加え、海側からも信仰されていたということが、この説話のもとになったと私は考える。さらに付け加えるなら、役行者が葛城山中の交流を作り、谷筋は葛城氏のあとに平群郡一帯を拠点とした紀氏や平群氏が移動することで交流を作った。このように葛城という地域は山、谷、そして海とつながる交通の要衝であった。
【講師プロフィール】
1972年、東京都に生まれる。1995年、東京大学文学部卒業。2000年、東京大学大学院博士課程中退。現在、奈良文化財研究所都城発掘調査部主任研究員。著書に『平城京に暮らす』(吉川弘文館、2010年)、主な論文は「駅と伝と伝馬の構造」(『史学雑誌』105-3、1996年)。「「都市」平城京の多様性と限界」(『年報都市史研究』13、2005年)。「上咋麻呂状と奈良時代の官人社会」(『奈良史学』23、2006年)など。