『日本書紀』と『国史』の教科書
日本書紀を語る講演会 第3回 橿原市
2016年12月3日(土)13時00分~14時40分
会場・奈良県社会福祉総合センター 大ホール
講師・歴史コメンテーター 一般財団法人日本普及機構代表理事 金谷俊一郎(かなやしゅんいちろう)氏
演題・『日本書紀』と『国史』の教科書
講演の内容
本日は、戦前の日本史の教科書、国史と日本書紀を比較しながら、日本書紀は何を伝えようとしていたのか、また戦前の教育は何を伝えようとしていたのかを講義したい。
「日本史」という教科の名称は戦後、GHQの影響下にあった日本政府がつけたものである。戦前は「国史」という名称を使っていた。たとえば「国語」という教科名が、「日本語」に変わったとしたら、多くの人は違和感を覚えるだろう。私自身、この「日本史」という科目名には同様の違和感を覚える。また名称だけではなく、その内容も大きく異なっている。それは目次をみることでもはっきりとわかる。国史の目次は「第一、天照大神」、「第十、和気清麻呂」、「第二十、後鳥羽上皇」というタイトルが並び、現在の日本史の教科書にあるような「日本のはじまり」「奈良時代の政治」などといったタイトルはほとんど見られない。すなわち、国史は人物中心の紀伝体、日本史は出来事中心の編年体で書かれているのである。国史は人物を中心に歴史を学ぶ。歴史とは人の営みであり、その人物の功績や人柄に感銘を受けることが歴史を学ぶというものであり、「人」のダイナミズムを学ぶことこそが、歴史を学ぶ醍醐味でありロマンでもあると私は考える。そういった意味では、戦前の「国史」の教科書は非常に魅力的な面白い内容であるといえる。
日本書紀には他の国の歴史書には見られない大きな特徴がある。それが「一書に曰く」というものである。これは本文以外に、別の書物に記されている記述を脚注のような扱いで列記したもので、「神代」の部分のみそのような記載のされ方となっている。歴史書というものは本来、自らの支配の正当性を証明するために書かれるものだから、「歴史は一つ」というスタンスで書かれることが普通である。『日本書紀』のような構成をもつ正史を編纂する国は類をみない。これこそ、八百万の神々を認める、ある意味日本らしさが感じられて非常に面白い。これから一書に曰くに記された別の見解の比較を交えながら、国史を読んでいきたいと思う。
天岩屋神話を例に比較すると、天照大神が岩屋にお隠れになったきっかけは、国史には「(素戔嗚)尊が大神の機屋をお汚しになったので大神はとうとう天岩屋に入り…」とある。それが日本書紀の本文には「機屋に皮を剥いだ馬を投げ入れ、驚いた天照大神は梭で身に怪我を負い、ついに怒った天照大神は天岩戸に入り…」となる。ちなみに一書に曰くの一つには、馬を投げ入れたときにはお怒りにならずに、その後、新嘗の際に素戔嗚尊が糞をした席に天照大神が座ってしまい、それに怒り恨んだ結果、天岩戸に入ったとある。天照大神がお怒りになったポイントは書物によって異なるが、機織り、新嘗ともに当時の神聖な儀式であったということが推測される。続いて、国史には「何とかして大神をお出し申そうと、岩戸の外に集まって、色々ご相談の上、八坂瓊勾玉や八咫鏡などを榊の枝にかけて、神楽をおはじめになった。」と三種の神器の記述がみられるが、日本書紀本文には大鏡と幣帛を掲げたとあり、三種の神器の記述はない。もう一つ付け加えるなら国史の「その時、天鈿女命の舞の様子がいかにもおかしかったので、神々はどっとお笑いになった。」という箇所は日本書紀本文では笑っているのは天鈿女命本人なのである。こうしたように、古事記を含め、書物によって微妙に内容が異なっており、その違いの意図を検証するのも歴史の面白さの一つであろう。
次は素戔嗚尊を高天原から追放する場面である。国史には「戔嗚尊は神々に追われて出雲に下った。」とあっさりとした内容であるが、それに対し日本書紀本文は沢山の貢ぎ物を貢がせ、髪の毛を抜いて放逐したなど罪に対してしっかりと罰を与えていることに注目したい。これは日本という国は律令国家であるということを正式な歴史書である日本書紀でアピールしているのである。また、日本書紀は因幡の白兎などの出雲神話の説話は記載されていないが、これも日本国家の歴史書であるという点から、一地方の歴史を掘り下げる必要性がなかったからだと思われる。
初代天皇神武の東征の記述には、国史はもちろんのこと古事記と比較しても日本書紀には、より詳細に神武天皇の武勇について語られている。
さて、神武天皇及び第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの欠史八代といわれる天皇たちは実在したのであろうかという議論がある。これについての一つの手がかりとなるものに辛酉革命という考えがある。辛酉の年、とくに、1260年周期(干支1周りの60年(1元)×21元=1260)に訪れる辛酉の年は、天命が改まり、新たな世の中が生まれるとされている。その周期が601年にあり、その年から1周期遡った紀元前660年に神武天皇が即位したということにしたのであろう。
私は神武を含め、欠史八代は実在したのではないかと考える。その理由として、当時の神事は年に2回行われていたものが多く、この時代はいわゆる年変わりが半年毎に行われていたのではないかと推測することができる。そうすると長齢であった欠史八代の没年齢も半分となり、常識的な範囲に収まるのである。そして第10代崇神天皇の時代にヤマト政権が誕生したのではないかと考える。神武天皇や欠史八代の位置付けは、崇神天皇が鎌倉幕府を開いた源頼朝にあたると考えると、神武天皇が源氏の開祖である清和天皇にあたり、欠史八代というのは、頼朝の父祖や曾祖父などである義朝、為義、義親、義家などにあたるのではないかと考える。
日本武尊も古事記と比較して日本書紀の記述は兄弟間の諍いなどの描写はなく淡々と東征の様子が語られているのは日本書紀が正史である理由であろうし、続く神功皇后や仁徳天皇も立派な功績が語られている。特に仁徳天皇については、民が苦しんでいるのをみて、税を取らなかったといった為政者が民衆を支配する上である意味都合の悪い話まできちんと書かれている。神話時代を含め、歴代の天皇や神々たちのこのような功績を書き記すことによって当代の天皇たちは身を律して政務に励み、そうした徳が今に至っているのではないかと私は思うのである。
【講師プロフィール】
歴史コメンテーター。歴史作家。東進ハイスクールにて20年以上日本史トップ講師として活躍。参考書のみならず、『早稲田の日本史で、「日本の論点」がわかる』(KADOKAWA)、『全国・最強ご利益パワースポット巡り』(宝島社)などの一般書も好評。
また、「世界一受けたい授業」(日本テレビ系)や「ネプリーグ」(フジテレビ系)、「Qさま!」(テレビ朝日系)などのテレビ・ラジオや講演会で、歴史・偉人・日本の文化を楽しくわかりやすく伝える活動も人気を博しており、大河ドラマの関連地や、近年は世界遺産や地方創生のイベントなどでも活躍している。