日本書紀と邪馬台国
日本書紀を語る講演会 第9回 高取町
2017年2月26日(日)13時00分~14時40分
会場・高取町リベルテホール大ホール
講師・奈良県立橿原考古学研究所 所長 菅谷文則氏
演題・日本書紀と邪馬台国
講演の内容
三国志、宋書などの中国の歴史書から、日本の歴史を組み立てることは日本の文化・歴史を蔑ろにしているとの意見が散見する。しかし、日本書紀編纂の際、年代設定の基準としたのが、三国志魏志倭人伝である。60年で1周する干支には、1260年周期で訪れる辛酉の年には革命が起こるという古代中国の思想が、日本に伝えられた。その具体的時期は判らない。そして、推古9年(601・辛酉の年)から遡った1260年の辛酉の年こそ建国の日であるとした。それは、初代神武天皇が橿原宮で即位した年であるというのが現在の日本書紀の天皇系譜の基点となっている。古代中国の思想が、日本の年代を決めるポイントとなっている。それが古墳時代の日本とどのように関係するのかを紹介していく。
魏志倭人伝(三国志の一部分の略称)によると、西暦239年に邪馬台国の女王卑弥呼は、魏へ遣使した。朝鮮半島の帯方郡(韓国のソウル近郊カ)を経由して都の洛陽へ向かったと記述されている。当時の中国大陸は魏のほかに、呉・蜀という国があり、三国時代と呼ばれたが、卑弥呼が魏に使者を送る1年前の238年まで、中国大陸の東北部には公孫氏が燕という国を興しており、当然、邪馬台国は朝鮮半島経由では魏に遣使できなかった。邪馬台国から朝貢を受けた魏の皇帝の詔文が魏志倭人伝に記録されている。詔文を全文記録しているのは、三国志の中では邪馬台国の遣使に対してだけである。魏が、倭との関係を重視していたことがわかる。ちなみに、詔文の後には、卑弥呼が死んだということを記した「卑弥呼以死大作冢」という文が記されているのだが、「以って」の解釈が現在も研究者の間で議論されている。
日本書紀巻九の神功皇后紀には、魏志倭人伝を割注として引用している箇所がいくつかある。その中に、現行の魏志倭人伝では景初二年となっている(景初二年六月倭女王)が、日本書紀では景初三年と書かれている(神功皇后の卅九年。魏志云、明帝景初三年六月、倭女王…)。朝鮮半島や台湾の教科書では原文に倣い、景初二年を採用している。少し時代が下った6世紀前半の南斉書などにも景初三年と記されている。日本では、景初三年が正しいとしているのであるが、その理由として挙げられるのが、景初二年の西暦238年は、先ほど述べたように、公孫氏の燕国があるため、魏に向かうことはできないからである。
神功皇后紀の紀年を西暦に換算すると、神功39年は西暦240年にあたる。これは、神武天皇の即位を辛酉年のB.C.660年であることを基に算出している。その影響で、記紀では神武以降の何代かの天皇は、大変な長寿となり、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの記述が非常に短いことで、欠史八代と呼ばれている。また、第10代崇神天皇が初代天皇であり、崇神天皇の事績を神武天皇の事績として充てたという説なども江戸時代から議論されている。確実なのは、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文の解析などによって、5世紀後半には、雄略天皇の実在がほぼ確定している。日本の古墳時代の始まりは、現在では西暦250年あたりとされている。そして、考古学の視点では、巨大な前方後円墳の出現は250年より少し前であると私は考えており、したがって、邪馬台国の時代には、前方後円墳などが築かれて、すでに古墳時代が始まっていたと私は考えている。纏向勝山古墳やホケノ山古墳は卑弥呼の時代の古墳でおそらく間違いないだろう。卑弥呼や、その後継者である台与(壹与)の死後、乱れた倭国をまとめたのが、崇神天皇であり、それが天皇家の始まりであるという考えが通説とされているが、私は、神功皇后の皇子である、第15代応神天皇から始まったのではないと考えている。
日本書紀に引用された三国志は、魏を滅ぼした晋の時代に書かれた。日本書紀が編纂される頃には、すでに日本に伝わっていたので、日本書紀編集に利用することが可能であった。他の歴史書からの引用は漢書や後漢書、百済三書などがあるが、史記からの引用は少ない。また、日本書紀には、いわゆる倭の五王の記事の引用がないことから、宋書などは日本書紀編纂時には伝わっていなかったのであろう。引用元となった中国の書物は、おそらく、推古朝かその直後に輸入されたと考えられている。また、日本書紀は、区分論の研究や第二次世界大戦後、盛んに行われた人名や和風諡号の付け方などの研究により、おそらく10のグループに分かれて編纂されていたのではないかということがわかっている。そうした研究の中、考古学の視点では、第二次世界大戦の直後までは、崇神・垂仁天皇から実在したと考えられていた。それは4世紀のはじめから中頃であり、そこから古墳時代の始まりが4世紀とし、ひいては日本国家が形成されたとされていた。しかし、纏向遺跡の研究を起爆剤として全国各地で行われた土器の研究から、古墳時代の始まりは220年~250年頃まで遡ることになる。そうなると、天皇系譜と卑弥呼との関係が複雑になる。冒頭に述べたような、日本の歴史から中国の歴史書を外そうとする一因にもなっているのではないだろうか。
日本書紀1300年に向けて、もう一度改めて日本書紀とその時代を、魏志倭人伝や中国の歴史書も併せて研究していかねばならないと思うのである。
【講師プロフィール】
1942年生まれ。1968年~ 奈良県立橿原考古学研究所入所
1979~81年 北京大学考古系留学 1986~88年 ならシルクロード博覧会に参画
1995~2008年 滋賀県立大学教授 2009年~ 奈良県立橿原考古学研究所長
2010年に「東アジアの巨大墳と卑弥呼の「大冢」」2014年に「秦漢から曹魏の璽印-『漢官六種』による-」を書き、古墳時代と邪馬台国の関係の同時性を近年は論じている。滋賀県立大学名誉教授・帝塚山大学特任教授。