記紀・万葉講座

葛城氏のあとに─馬見丘陵地域の古代史─

日本書紀を語る講演会 第2回 香芝市

2016年11月26日(土)13時00分~14時30分
会場・香芝市ふたかみ文化センター 市民ホール
講師・京都大学 文学部教授 吉川真司(よしかわしんじ)氏
演題・葛城氏のあとに─馬見丘陵地域の古代史─


 

講演の内容

本講演では、4世紀から7世紀にかけて、馬見丘陵周辺で積み重ねられた歴史をたどっていきたい。ニュータウン化が進む馬見丘陵だが、かつてはなだらかな丘陵が大和川の南に続いていた。南北およそ7km、東西およそ3km、標高は最大で25mほどで、「豆山(馬見丘陵の古名)三里小石なし」と言われるほど、石が少ない土地だったという。行政的に見れば、馬見丘陵は北葛城郡が発足する明治30年まで、東部は高田川流域の広瀬郡、西部は葛下川流域の葛下郡という2つの郡にまたがっていた。広瀬郡と葛下郡・葛上郡を合わせた地域が葛城であり、葛城の北半分が今回お話しする馬見丘陵地域と言うことになる。

この地域の古代史を考える上では、遺跡がたいへん重要な意味をもつ。馬見丘陵の東南部には4世紀から5世紀にかけて築かれた馬見古墳群があり、丘陵の東西には片岡王寺・西安寺・尼寺廃寺・長林寺など、7世紀代の寺院が密集している。これらの古墳や寺院はどのような人々によって築かれたのだろうか。

文献を見てみると、葛城地域最初の巨大勢力は、葛城氏という豪族であった。葛城氏は有力な大臣・武内宿祢(たけしうちのすくね)を始祖とし、その子に葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)という人物がいた。『日本書紀』では襲津彦は、神功皇后から仁徳天皇の時代にかけて5回も登場しており、朝鮮半島をめぐる軍事活動や外交交渉などで活躍している。「百済記」にも「沙至比跪(さちひこ)」として現われ、4世紀後半に実在した人物であろうと認められている。襲津彦が手にした大きな政治力を、その子孫の葛城氏は大王家と婚姻関係を持つことで維持していった。5世紀には履中天皇から武烈天皇まで9人の大王のうち、6人の母が葛城氏の女性であったこと。当時のヤマト王権にとって、葛城氏がいかに重要な位置にあったかが如実にうかがわれる。

葛城氏の本流はおそらく葛上地域を本拠とし、襲津彦の子(名前は未詳)のあと、玉田宿祢(たまたのすくね)、円大臣(つぶらのおおきみ)と続いたが、円大臣が眉輪王の反乱に加担したため、5世紀後半に滅亡してしまう。一方、襲津彦から葦田宿祢(あしたのすくね)、蟻臣(ありのおみ)、荑媛(はえひめ)と続く流れは、おそらく葛下地域を拠点とし、有力な母后が輩出した。本流と違って、その血筋は生き延びたと見る説もあるが、荑媛以降になると有力な人物は全く現われないから、やはり没落したと考えるのが妥当である。

葛城氏が退場した後、馬見丘陵地域に勢力を伸ばしたのは、葛城氏の血を引く大王家一族であった。葛城荑媛を母とする飯豊皇女(いいとよのひめみこ)は清寧天皇の死後、馬見丘陵地域南端にあたる忍海角刺宮で国政を執ったとされる。その陵墓(埴口墓)とされる古墳は時期的にも問題がなく、『日本書紀』記事の信憑性は高い。また、同じく葛城荑媛が生んだ仁賢天皇、その子の武烈天皇も、『日本書紀』によれば馬見丘陵地域に陵墓があった。古墳を築く場所はとても重要で、その人物と関わりの深い場所や勢力をふるった地域を選んだに違いない。さらに武烈天皇は「城上(キノヘ)」と呼ばれた水派邑(ミマタムラ)を開発したとされる。キノヘは馬見丘陵地域南部の地名とみて誤りない。こうしたことから考えると、葛城氏の血を受けた大王たちは、馬見丘陵地域における権勢を受けつぎ、政治的・経済的な実力の源泉としたと言えそうである。

葛城氏系の大王は武烈天皇でとだえるが、継体天皇は武烈天皇の姉にあたる手白香皇女をキサキとし、その子孫たちが王統を継承していった。継体の孫にあたる敏達天皇は、その葬儀を「広瀬」で行なったと『日本書紀』は伝える。広瀬も馬見丘陵地域と考えるほかなく、ここにも大王家との深い関係を見出すことができる。敏達天皇の子である押坂彦人大兄皇子は、武烈天皇が開発した水派邑に宮室をいとなみ(水派宮)、その成相墓(ならいのはか)は馬見丘陵内の牧野古墳にあてるのが定説である。牧野古墳は直径69mの大円墳で、奈良県でも屈指の規模の横穴式石室をもつ。6世紀後半には、大王家一族はふたたびこの地域に進出し、政治的な拠点としていたのである。

押坂彦人大兄皇子にはじまる王族には、やがて天智天皇・天武天皇が現われ、奈良時代以降の天皇家につながるが、彼らは元来、蘇我氏との婚姻関係をほとんどもたなかった。この一族を、彦人大兄皇子の主要拠点であった押坂(桜井市忍阪)にちなんで「押坂王家」と呼ぶが、馬見丘陵地域は押坂王家のもう一つの勢力基盤だったわけである。面白いことに、大和川をはさんだ斑鳩地域には、蘇我氏の血を色濃く受けた王族、つまり聖徳太子の一族「上宮王家」が勢力を伸ばしていた。二つの王家はやがて、推古天皇の後継をめぐって対立する。押坂王家の田村皇子、上宮王家の山背大兄王がそれぞれに王位継承を主張し、豪族たちも二つに割れた。結局、蘇我蝦夷が一族をまとめ上げて田村皇子を擁立し、この人物が舒明天皇として即位することになる。その後、上宮王家は643年に蘇我入鹿らに滅ぼされ、蘇我氏本宗家も645年に滅亡する。こうして押坂王家が「非蘇我系の王統」を確立したのであるが、その勢力基盤(副拠点)こそが馬見丘陵地域であった。

押坂王家の遺産は、馬見丘陵地域にいくつも見ることができる。まず、片岡王寺であるが、その創建者については諸説あるものの、私は吉川敏子氏の糠手姫皇女説を支持したい。糠手姫は押坂彦人大兄皇子の妻で、舒明天皇を生んだ女性である。また、尼寺廃寺についても、彦人大兄皇子の子、茅渟王(皇極天皇・孝徳天皇の父)が創建したという学説が有力である。彼の墓が「片岡葦田」にあり、尼寺廃寺に近接する平野塚穴山古墳がそれにあたると推定されるからである。ただし、私は古墳や寺院の年代、瓦の系譜などに着目し、むしろ茅渟王の妻である吉備姫王が創建したと見たほうがよいと思う。いずれにせよ、両寺ともに押坂王家一族との関わりを考えることができる。彼ら・彼女らの活動をよく物語るものであるが、文献や瓦から見れば、斑鳩の上宮王家とも友好的であったらしい。

馬見丘陵の南部から東南にかけて弘福寺(川原寺)の荘園、広瀬荘があった。弘福寺は、天智天皇が母の斉明(皇極)天皇のために建てた寺院である。その広瀬荘は30町もの田地と経営施設、さらに広大な山林や瓦窯からなっていた。これは「押坂彦人大兄皇子→舒明天皇→天智天皇」と相続された領地が、弘福寺に施入されたものと見られる。また天智天皇の弟、天武天皇も馬見丘陵地域に離宮「広瀬宮」をもっていた。近くの片岡・木上(キノヘ)に天武の領地があったらしく、子の高市皇子、孫の長屋王へと受けつがれ、長屋王家木簡に現われることになる。木上司からは米やあけび・なつめ・竹などが進上され、馬も飼われていた。私は、JR五位堂駅東の「木延」「大ミカド」が木上司に関係する地名であろうと考えている。木上も片岡もまた押坂王家が領有し、天武天皇やその子孫に相続された荘園だったのである。ちなみに高市皇子の葬儀は城上(キノヘ)で行なわれ、墓は「三立丘」にあった。今もニュータウン内に「見立山近隣公園」があり、おおよその場所が知られる。

以上、馬見丘陵地域の歴史と、それに関わる遺跡や荘園について述べてきた。葛城氏の栄光と没落のあとに、王族たちがこの地に進出し、特に押坂王家の勢力基盤となった。蘇我氏の影響の強かった葛城南部とはやや異なった古代史を、馬見丘陵地域はもっていたのである。こうしたことは古墳や寺院の遺跡、あるいは古文書や木簡からうかがい知ることができる。とりわけ地域の遺跡は、古代史のかけがえのない証人と言ってよい。地域から歴史を考えることは、『日本書紀』をよりよく理解する上でも必要不可欠なのである。

公演1

 


吉川様

【講師プロフィール】
1960年、奈良県生駒町(現生駒市)生まれ。1989年、京都大学大学院文学研究科(国史学専攻)を修了。京都大学助手・助教授・准教授を経て、現在、同教授。専門は日本古代史で、特に政治史・寺院史・地域史を中心に研究を続けている。
著書として『律令官僚制の研究』(塙書房)、『天皇の歴史02聖武天皇と仏教平城京』(講談社)、『シリーズ日本古代史③飛鳥の都』(岩波新書)などがある。