記紀・万葉講座

奈良市内の大型古墳と天皇系譜

日本書紀を語る講演会 第9回 奈良市

2016年2月27日(土)13時00分~14時30分
会場・奈良市ならまちセンター 市民ホール
講師・奈良県立橿原考古学研究所 所長 菅谷 文則(すがやふみのり)氏
演題・奈良市内の大型古墳と天皇系譜

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講演の内容

奈良盆地には、多くの古墳が築かれていた。奈良市の平城京北側には佐紀古墳群があり、この佐紀という地域が『日本書紀』の天皇の系図・系譜の観点から見ると非常に関係が深い。それは、佐紀古墳群と当時の豪族、葛城氏との関連性による。


佐紀古墳群のうち佐紀石塚山古墳や佐紀御陵山古墳など大古墳の多くは、記紀の天皇系譜の天皇や皇后の墓とされている。佐紀石塚山古墳は成務天皇陵、佐紀御陵山古墳は日葉酢命陵、ヒシアゲ古墳は磐之媛命陵、宝来山古墳は垂仁天皇陵と治定されている。このような天皇系譜の確実性については具体的な研究は進んでいない。古典に記述された天皇陵は、記紀編纂の期に考証されたものであると考えられるが、奈良時代になっても、神功皇后陵を取り違える事件があるなど、安定はしていなかった。現在の佐紀古墳群の各天皇・皇后陵の治定は、明治初期に決定されたものである。記紀には、葛城氏との関係が述べられている。


葛城氏は、天皇と直接対等につきあえるほど大きな力をもった唯一の豪族であったという。応神王朝の系譜において、応神天皇の子、仁徳天皇の皇后は葛城襲津彦の娘、磐之媛であり、履中天皇の皇后の黒媛や、雄略天皇の皇后の韓媛も、葛城の一族であった。応神、仁徳の系譜から日本の天皇制が始まるという説をとったとして、その系譜の中で大きな存在であったのが葛城氏であり、『古事記』・『日本書紀』によればその葛城氏が奈良市の佐紀に墓を作っているということは、佐紀の古墳群というのは日本の歴史の重要な一場面を形成したと考えられる。葛城氏の力は雄略天皇の時代にも非常に強く、雄略天皇の権力基盤は葛城の地にあって、それが奈良市内にも及んでおり、今このように天皇家の墓が数多く存在している。


奈良盆地の東側の古墳群は邪馬台国問題と絡んで非常に重視されている。近年では佐紀と同じ形式の古墳が桜井の地域から見つかっており、桜井の地域は佐紀の地域に支配されたのではないかという論も出てきている。これまでの古代史では、倭の五王などを考える際には大阪の河内和泉が中心地とされてきたが、実はこの奈良の古墳群もまた関連性が深いということがわかってきている。


日本で鉄を作り始めたのはいつごろかという議論があり、古墳時代の鉄の素材は朝鮮半島の伽耶から、ヒスイと交換して入手していたとみられる。今私の研究所ではそのヒスイと鉄の交換について研究をしているが、もう2年もすればまとまった成果を発表できるだろう。


 

 


【講師プロフィール】
菅谷 文則(すがや・ふみのり)/奈良県立橿原考古学研究所 所長
1942年、奈良県生まれ。高校1年生でメスリ山古墳、高校2年生で天神山古墳の発掘調査に参加し、40才ぐらいまで古墳と古墳時代研究に邁進してきた。その後、飛鳥時代の遺跡調査を中心にし、50才ぐらいからは、中国の古墳の発掘調査に外国人としてはじ めて発掘隊長を務める。現在、古墳時代研究に回帰しつつある。
現在、奈良県立橿原考古学研究所所長、滋賀県立大学名誉教授、帝塚山大学特任教授、早稲田大学シルクロード調査研究所招聘研究員を務める。