書紀にみえる初期の王陵と奈良盆地東南部の巨大古墳
日本書紀を語る講演会 第6回 天理市
2016年1月30日(土)13時00分~14時30分
会場・天理市文化センター 文化ホール
講師・大阪府立近つ飛鳥博物館 館長 白石 太一郎(しらいしたいちろう)氏
演題・書紀にみえる初期の王陵と奈良盆地東南部の巨大古墳
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講演の内容
奈良盆地東南部の墳丘長200~310メートルの6基の巨大な前方後円墳は、3世紀中葉から4世紀中葉にかけての100年間に、おそらく箸墓→西殿塚→外山茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山の順に営まれたと考える。後に大王、天皇と呼ばれることになる当時の日本、倭国の王様の墓であることは間違いないと考えられ、この奈良盆地東南部の初期の倭国の王様の墓が、『日本書紀』との関係でどのように理解できるのかということを話したい。
1代目は、3世紀の中頃とされる箸墓古墳。箸墓の被葬者は、三輪山の神様、大物主神に仕えた巫女であったと言い伝えが残っており、私は、「魏志倭人伝」に出てくる邪馬台国の女王、倭国の女王の卑弥呼の墓であるという可能性、蓋然性が極めて高いと考えている。
2代目は、西殿塚古墳。これは2代目の王墓で、「魏志倭人伝」によると卑弥呼の後継者とされる台与(とよ)の墓である可能性が強い。
3代目の外山茶臼山古墳、桜井茶臼山は、この古墳は中心的な埋葬施設は後円部に立派な竪穴式石槨があることが分かっており、従来中国からもたらされたとされていた三角縁神獣鏡が出土したという調査の結果からも、3世紀の末ぐらいには出来上がっていた。被葬者はおそらく男性の王、政治的軍事的、宗教的呪術的王を併せかね、実権を握っていたのではないかと考えられる。
4代目メスリ山古墳の被葬者は、軍事的政治的王であるとともに、宗教的呪術的な役割をも果たした王様であったということが解り、3代目と4代目は非常によく似た性格の王様であったことが分かる。
5代目の行燈山古墳(現崇神陵)、6代目の渋谷向山陵(現景行陵)は、非常によく似た古墳だが、行燈山古墳の方が4世紀の前半、渋谷向山の方はおそらく4世紀の中頃であろうということが、最近の調査でも分かり、それから考えても6代目の渋谷向山は4世紀の中頃でいいだろうと思われる。
結論として、私は間違いなくこの6基が3世紀の半ば過ぎから4世紀の中頃まで約100年間の倭国王墓であることは疑いえないだろうと思っている。『古事記』や『日本書紀』に伝わる、行燈山古墳が崇神陵である可能性は非常に大きいとは思うが、崇神は『古事記』・『日本書紀』によると日本を初めて治められた天子様と呼ばれている。しかしながら、こういう考古学的な検討の結果で考えると、崇神陵というのは箸墓(卑弥呼)から数えて5代目の倭国王墓に過ぎない。要するに、『古事記』・『日本書紀』の原型が形成される時期に残っていた文献で、たまたま一番古く伝わっていたのが崇神いう王様であったというだけであり、それは実は箸墓から数えると5代目の倭国王墓に過ぎなかったわけである。
また、最初の倭国王墓である箸墓古墳が卑弥呼の墓であるという蓋然性はきわめて高く、実は現在の天皇家に繋がる倭国王の系譜の一番最初に出てくるのは箸墓の被葬者、卑弥呼である蓋然性が極めて高いということになる。少なくとも大和王権の王様の王統が卑弥呼に始まる可能性はきわめて高いと考えざるを得ないということになる。
【講師プロフィール】
白石 太一郎(しらいし・たいちろう)/大阪府立近つ飛鳥博物館 館長
1938年、大阪府生まれ。同志社大学大学院博士課程満期退学後、(財)古代学協会、奈良県立橿原考古学研究所、国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学、奈良大学などを経て、現在大阪府立近つ飛鳥博物館館長、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。専門は考古学で、日本の古代国家や古代文化の形成過程を考古学の立場から追及。
著書に、『古墳とヤマト政権』(文春新書1999年)、『古代学と古代史のあいだ』(ちくま学芸文庫2009年)、『古墳からみた倭国の形成と展開』(敬文舎2013年)など多数。