海幸・山幸の神話-『日本書紀』から『古事記』を見る-
日本書紀を語る講演会 第4回 宇陀市
2015年12月19日(土)13時00分~14時30分
会場・宇陀市榛原総合センター 大ホール
講師・お茶の水女子大学 教授 荻原 千鶴(おぎはらちづる)氏
演題・海幸・山幸の神話-『日本書紀』から『古事記』を見る-
パンフレットにリンク
講演の内容
兄の釣針をなくした山幸彦が、釣針を捜して海神の宮を訪れる「海幸・山幸神話」は、一般には『古事記』の形で世間に知られているが、『日本書紀』(神代巻)にもほぼ同じような話がある。「海幸・山幸神話」は、日本神話の代表的なもののようにも扱われているが、実は、外国にいくつも似た神話や説話がある。だが、外国の話は似ているといっても、どれ一つとして「海幸・山幸神話」の全体をカバーせず、その一部(釣針探索・異郷婚姻・異類出産)との類似にとどまる。
一方、『日本書紀』の神代巻について言うと、いくつもの異伝が「一書に曰く」という注の形で併記されているのが特徴である。それら『日本書紀』の「海幸・山幸神話」の一書群を比べていくと、釣針探索・異郷婚姻・異類出産の間のつながりが不安定であることがわかる。海幸・山幸の話は、もとはいくつかのもっと簡単で断片的な話があって、それらがつなぎ合わされて、一筋のストーリーの流れができあがっているのだと考えられる。
その一筋の流れをつなぐ役目を果たしているのが海神(わたつみのかみ)である。海神は、阿曇連(あづみのむらじ)という氏族の祀っていた神である。もうひとつ関わりが考えられるのは「隼人」と呼ばれた人たちである。彼らは南九州(鹿児島県あたり一帯)に住んでいて、大和朝廷からは異族であるかのように見なされており、その一部は畿内に移住させられて、宮門の警護をしたり宮廷の行事の折に隼人舞を奉納したりしていた。『古事記』でも『日本書紀』でも、海幸彦はこの隼人の先祖であると記されており、海幸彦が弟の山幸彦に屈服して以来、海幸彦の子孫である隼人は、山幸彦の子孫である天皇に代々仕えるようになったのだと、隼人奉仕の機縁が記されている。
海洋性豊かな海幸・山幸の話は、海の幸に恵まれる海幸彦、すなわち隼人の若者を、もともとは主人公としていた可能性が高い。その隼人の神話を土台として、山幸彦を歓待し、山幸彦に女をめあわせ、山幸彦に呪物を奉る海神を配することによって、自分たちの氏族の王権への奉仕起源譚を、一つのストーリーにのせて編み出したのが、阿曇連だったのではないかと考えられる。
さて、『日本書紀』の神武天皇伝説は、海幸・山幸の話との連続性が意識されている。『日本書紀』では神武天皇の諱(いみな)は、ヒコホホデミであると記されており、これは神代巻の山幸彦と同名である。『日本書紀』の神武天皇東征伝説は、異郷を遍歴する若者が試練と助力を受けつつ成長し、支配者としての資格を手に入れる点において、山幸彦の海宮訪問神話と同想だ。神武天皇伝説の形成されるある段階においては、神武東征は山幸彦の山の世界における活躍を描く構想のもとに展開されていたのではないかと考えられる。海の異郷世界における海神宮の役割を果たしているのが、ほかならぬ宇陀である。『日本書紀』の神武東征では、『古事記』に比して「宇陀」が格段に重要な位置を占めている。宇陀は天照大神が一時期祀られた地でもあり、伊勢街道を通して伊勢との結びつきが強い。山奥の地のイメージが強い宇陀だが、道を介して「海」とのつながりを考えていく必要がある。
神武天皇伝説の形成には、天武天皇・持統天皇が関わっている。持統天皇は、草壁皇子の遺児、軽皇子が次代の天皇となることを望んでいた。軽皇子の山幸彦としての姿、弓矢を手にして狩に出で立つその雄姿を印象づけることは、皇位継承者としての軽皇子をアピールするに効果的だった。そうした持統天皇の意向に沿って行われたのが宇陀の安騎での狩りであり、それを柿本人麻呂が力を込めて歌ったのが、『万葉集』の安騎野遊猟歌なのだと考えられる。
【講師プロフィール】
荻原 千鶴(おぎはら・ちづる)/お茶の水女子大学 教授
日本上代文学、特に古事記、日本書紀、風土記、万葉集を中心に研究。女性をテーマにした著作や研究にも定評がある。古事記学会奨励賞選考委員長、上代文学会代表理事などを歴任。
著書に『日本古代の神話と文学』(塙書房1998年)、『出雲国風土記』(講談社学術文庫1999年)、『兼永本古事記・出雲国風土記抄』(共著 岩波書店2003年)など多数。上代文学会賞、日本古典文学会賞受賞。