「古事記のヤマト観」
古事記を語る講演会 第4回 天理市
2014年1月25日(土) 13時30分~15時00分
会場・天理市文化センター 文化ホール
講師・國學院大學 准教授 谷口 雅博氏
演題・「古事記のヤマト観」
パンフレットにリンク
講演の内容
一口にヤマトと言っても、いくつかの段階がある。
一番大きいのは日本全体を指す場合、次は行政区画上の1つの国としてのヤマト(基本は“大和” と書く)、さらにより狭い範囲としてのヤマト(山の辺の道を中心とした地域)などがある。今日はこれに加え、古事記特有の奈良県に河内を加えたヤマト(古事記では“倭” と記載)についての話をしたい。
まずは古事記の順に従い、神話に出てくるヤマトから考察する。スサノオの子孫である大国主は本格的な国づくりを遂行していくことになるが、スクナビコナという神と協力をして国づくりするよう天上の神から命令される。しかし、スクナビコナが常世の国に渡り、一人では国づくりを完成できないと嘆いているところに、別の神が現れ、大和の三輪山に私(神)を祀れば国づくりは完成すると明言した。こうした三輪山を中心とした奈良盆地に該当する大和の境界の地をことごとく祀ることによって、天皇支配の中心地たる大和の領域が確定していく。特に第10代の崇神天皇の時代には、はっきりと祀りが完了したとあり(御肇國天皇という称号が与えられる)、ここでようやく国づくりが完了したと考えられる。
一方、ヤマトタケルは兄を殺したことで、恐れをいだいた天皇から西、東へと派遣され、東から戻ってくる途中で命を落とす。名前にヤマトを背負いながらヤマトとの関わりが薄い存在であり、最後は白鳥になり河内から天に行くことになる。ここで一回り大きなヤマトが古事記では認識されていると考えられる。
つまり、ヤマトタケルという天皇ではない人物の子供が仲哀天皇として即位し、その後、応神天皇、仁徳天皇とつながっていくことから、河内が新たなる広がりを持ったヤマト(近畿圏)として認識され、それを象徴的に示すのがヤマトタケルが河内まで飛んでいったことではないか、今までとは少し異なる系統の天皇の支配がここから始まり、とりわけ河内王朝というものとのつながりがここで暗示されているのではないかと思われる。
【講師プロフィール】
谷口 雅博(たにぐち・まさひろ)/國學院大學 准教授
1960年 北海道生まれ
2011年より國學院大學文学部准教授
著書に<共著>『風土記を読む』(おうふう)、<共著>『風土記探訪事典』(東京堂出版)、『古事記の表現と文脈』(おうふう)
古事記学会理事、上代文学会常任理事など